京都国際高校甲子園優勝の隠れた主役、「学校は韓日が後援、選手は日本の子どもたち…世の中が変わったのでしょう」(1)
朴慶洙(パク・ギョンス)先生と記者は京都国際高校の校歌を一緒に歌った。朴先生は2017年から今年3月まで京都国際高校の校長を務め、「甲子園優勝」という奇跡の種をまいて基盤を固めた人だ。インタビュー要請に応じた彼は野球部のジャンパーと帽子、甲子園優勝記念ボール、優勝の瞬間を写した読売新聞と朝日新聞の号外などを準備してきた。 今年106年目を迎えた日本の高校野球最高権威大会である夏の甲子園で1947年に在日韓国人が設立した京都国際高校が優勝した。勝利するたびに甲子園の伝統により校歌が鳴り響き、選手らが「東の海を渡りし~」で始まる韓国語の校歌を歌う場面はNHKを通じて日本列島に広がった。京都国際高校が試合に勝つたびに序事が積もった。全校生徒138人にすぎないこの学校、しかも韓国系財団が設立したこの学校が果たして3700校の高校野球部の夢である甲子園神話を書けるか非常な関心事だった。 8月23日に行われた決勝戦。京都国際高校と関東第一高校とは9回まで0-0で延長戦に入った。先攻である京都国際高校が2点を取り、守備では無死満塁の危機を1点で防ぎ勝利を収めた。朴前校長はこの場面を世宗市(セジョンシ)の自宅でテレビで見守った。健康が悪化し来年までの任期を待たずに帰国した彼は、健康が回復し講演と著述活動をしている。決勝戦の会場に行っていなければならなかったのではないかと尋ねると、彼は「私が行く場所ではなさそうだ。白承桓(ペク・スンファン)現校長と監督がスポットライトを浴びるべきではないですか」として安らかに笑った。 ◇1年目は0-34で敗北、当時の相手選手が現在の監督 ――優勝を見守った心情はどうでしたか。 「感激です。7年間の苦しかった記憶が頭をよぎり涙が出ました。運動場の大きさが最長70メートルにしかならない学校の弱点を強みに変えて成し遂げた優勝なので(野球場の正規サイズは90メートル以上)。外野守備も難しく、場外ファウルボールやフェンスを超える長打を打てば駐車場に止めておいた車が破損するほど劣悪な環境で内野守備と投手力強化、低く速い打球を打つ訓練に集中しました。今年から公式バットの最大径を67ミリメートルから64ミリメートルに減らし長打がたくさん出ないのが私たちには幸運でした」 ――韓国語の校歌が話題になりましたが。 「迂余曲折が多かったです。2021年に初めて甲子園に出場した時に野球部のスタッフ陣が『日本の右翼の攻撃名分になりかねないので韓国語の校歌に代わる日本語の応援歌を作れば良いのでは』と提案し、理事会も前向きに検討する雰囲気でした。理事長が私に意見を聞いてきて『甲子園で韓国語の校歌を響かせようということで作った野球部ではないのか』として押し通しました。私の教え子たちも韓国語とK-POPが好きで進学したとして私の立場を支持しました。野球部員は登下校の時に一緒に校歌を歌ったりします。校歌の作詞は辺洛河(ピョン・ラクハ)先生がしました。韓国語と民族精神を教える民族教師をし後には牧師として活動されたといいます」 ――狭い運動場で60人余りが練習するが、糸がほつれたボールにテープを貼って使ったりもするとか。 「子どもたちの練習量が多いためボールがもたないです。練習ボールの価格も安くなく、テープを貼って再使用しています。今年初め日本にトレーニングに来た起亜タイガーズの選手団がこうした事実を伝え聞いて、トレーニング後に練習ボール1000個を送ってくれました」 ――小牧憲継監督も話題ですが。 「1999年に創立した京都国際高校野球部の初めての公式試合の相手が京都成章高校でしたが、私たちが0-34で惨敗しました。当時その学校の2塁手が小牧でした。負傷で野球をやめて銀行員だった彼を、野球部の同期だった本校の体育教師が『週末にちょっと助けてくれ』と頼んで学校との縁が始まりました。1年後に在日同胞の監督が辞職してその後を継ぎ、社会科教師も兼ねることになりました。小牧監督は練習中に一度も怒ったり暴言を吐いたりしたことがありません。代わりに。できなければできるまで粘り強く練習をさせます」。