その影響力も「今は昔」…視聴率「81.4%」を記録した60年代『NHK紅白歌合戦』とその裏番組
1963年『NHK紅白歌合戦』の裏番組と「五社協定」
結論から言えば、1963年の『NHK紅白歌合戦』裏番組は各局、ほとんど通常編成に近かった。 特番らしき番組は、本来は『徹子の部屋』(テレビ朝日)系のトーク番組『スター千一夜』があるフジテレビが21時台に、東京宝塚劇場からの『雲の上団五郎一座 ブロードウェイへ行く』舞台中継が配されていた程度だ。 『雲の上団五郎一座』シリーズはエノケンこと榎本健一の晩年の十八番演目で、貧乏な旅回り一座がメタ的な劇中劇を織り交ぜながら人情喜劇を繰り広げる物語の構造は、のちの『淋しいのはお前だけじゃない』や『タイガー&ドラゴン』(共にTBS)の元型と言える。 日本テレビも21時から火曜日のレギュラー番組である『裕次郎アワー 今晩は裕次郎です』を放送している。これは石原裕次郎が司会を務めるサッポロビール一社提供のトーク番組で、放送作家時代の大橋巨泉が構成を担当していた。 もっとも、前述の『スター千一夜』が芸能番組ではなく、TBSの『時事放談』と同じジャンルだと強弁したことから、なし崩し的に例外扱いとされていたトーク番組とはいえ、専属制の「五社協定」が存在していた時代の映画スターがテレビで冠番組を持つなど、本来はあり得ないことだった。 NHKも同年4月から12月29日まで「日曜20時45分」から放送していた大河ドラマ第1作『花の生涯』に松竹専属の佐田啓二を出演させ、五社協定の切り崩しに成功していたが、裕次郎が民放で冠番組を持ったのは、この年、個人事務所である石原プロモーションを設立したからだ。 つまり、『今晩は裕次郎です』は石原プロモーションの起業アピールと、日本麦酒株式会社(サッポロビール)がタニマチだったことから企画された番組だった。 このときの日本テレビとの繋がりが、のちに大ヒットした刑事ドラマ『太陽にほえろ』や『大都会』へつながっていくことになるのだが、自分の番組の放送を優先したからなのか、歌手としての初出場を打診されていた『第14回NHK紅白歌合戦』は裕次郎本人の意向で出場辞退した。 結局、裕次郎が紅白に出場したのは、デビュー直後の1957年『第8回NHK紅白歌合戦』で、当時のプロデューサー兼マネージャーだった水の江瀧子が司会を務めていたことから、飛び入りという形で雪村いづみの応援に駆り出されたのが唯一で、その後は『NHK紅白歌合戦』と無縁のまま、生涯を終えている。