その影響力も「今は昔」…視聴率「81.4%」を記録した60年代『NHK紅白歌合戦』とその裏番組
視聴率81.4%!? 1963年の『NHK紅白歌合戦』
『NHK紅白歌合戦』が史上最高の視聴率81.4%(ビデオリサーチ、関東地区。ニールセンは89.9%)を取ったのは、1963年の『第14回NHK紅白歌合戦』だ。 NHKに全編の映像が残っていた最古の回でもあるこの回は、冒頭から「日曜20時」のコメディドラマ『若い季節』で、結核で片肺を切除していることを隠し、元気でお調子者な板前の役を演じて売り出していた渥美清が聖火ランナー姿で入場するなど、随所で翌年の東京オリンピックを意識した演出が行われていた。 ところが、五輪マークと聖火台を模した舞台セットまで組んでおきながら、白組トリを務めた三波春夫が歌ったのは『佐渡の恋唄』で、『東京五輪音頭』ではなかった。 曲自体はこの年の6月23日に発売されているから、タイミング的には歌えるはずだが、本来はコロムビア所属の古賀政男がキングレコード所属の三橋美智也のために作曲したことから権利開放となり、橋幸夫、坂本九、北島三郎&畠山みどりも歌う7社(!)競作となった経緯から、三橋に配慮したと言われている。歌手も作曲家もレコード会社の専属という時代だったのだ。 もっとも、その三橋が『NHK紅白歌合戦』で歌ったのは『流れ星だよ』だったが。 なお、当のNHKも2019年の大河ドラマ『いだてん』と、同年10月13日放送のNHKスペシャル『東京ブラックホールII 破壊と創造の1964年』で、東京オリンピックは開催直前まで、一般大衆からほとんど支持されていなかったと告白している。 しかも、閉幕後の1965年には強引な「オリンピック景気」の反動で戦後最悪の不況が訪れた。 だとすると、三波もこの時点ではそこまで国家ぐるみのプロパガンダに協力する筋合いはない……と考えていたのかも知れない。小田井涼平脱退の曲がり角で「NHKプラス紅白親善大使」を請け負い、QRコードまみれの衣装を着ていた純烈とは大違いである。 だが、翌1964年に入ると、三波は再び『紅白歌合戦』のトリを狙うべく、一転して『東京五輪音頭』の販売キャンペーンを張った。『第14回NHK紅白歌合戦』で紅組トリ……4年ぶりの大トリを務めたのは美空ひばりで、紅組が勝ったからだ。 このキャンペーンが功を奏し、見事、2年連続のトリ……初の大トリを務め、白組も勝利したのだが、その『第15回NHK紅白歌合戦』で歌ったのも『東京五輪音頭』ではなく、『俵星玄蕃』だった。 結局、29回連続で『NHK紅白歌合戦』に出場した三波が『東京五輪音頭』を歌ったのは、28回目の出場となった、1989年の『第40回NHK紅白歌合戦』だけだった。 ……というか、三波が他に音頭系の曲を歌ったこと自体、自ら作詞した『世界平和音頭』を1968年の『第19回NHK紅白歌合戦』で歌っているだけだ。 この曲は1970年の『世界の国からこんにちは』へ繋がっていく佳作だが、あくまで自分の本領は浪曲歌謡であり、音頭調の曲は『NHK紅白歌合戦』に相応しくないと考えていたのかも知れない。 かつての『NHK紅白歌合戦』は、出場と歌唱順で翌年の格……地方営業のギャラが決まる番組だったからだ。 しかも、トリは紅白の勝ち負けまでギャラに加味されていたのだ。不条理だが、当時の芸能界はそういう細かいプライドの積み重ねで成り立っていた。 それにしても、81.4%という視聴率は、多チャンネル化や娯楽の多様化も進んだとはいえ、現代の感覚では想像すらつかない。 TBSが『第74回NHK紅白歌合戦』の裏で総集編を放送していた、2023年3月のワールド・ベースボール・クラシック中継でも、最高視聴率は準々決勝(16日)イタリア戦の48.0%だった。 ここまで圧倒的ということは、民放各局の裏番組はどうなっていたのだろうか?