恥辱に耐えかねる女性たちのため【日本初の女医】となった名医シーボルトの娘・楠本イネと荻野吟子
男性に体を診られたり、触られたりするくらいなら病気で死んだほうがいい! そんな女性たちが大勢いた時代に病に侵された彼女たちを救うため医師になった女性がいた。 日本で初の女性医師というと、ちょっと歴史に詳しい方なら、楠本(くすもと)イネの名前を上げることが多いことだろう。イネは、オランダ商館の医師として来日したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトとオランダ行き遊女其扇(そのぎ)こと滝との間に文政10年(1827)、長崎で生まれた。父のシーボルトは鳴滝塾等で日本人に最新の西洋医学を教授する一方で、日本についての様々な事柄について調査し、日本地図など禁制の品を国外に持ち出そうとして追放された。 イネはこの時幼児であったが、成長するにつれて学問を志すようになり、シーボルトの弟子のうち宇和島で開業していた二宮敬作(にのみやけいさく)の元で学ぶことになった。彼はイネを医学の道へと導き、さらに同門の石井宗謙(いししそうけん)のもとで産科について研鑽を積むよう促した。当時、お産は産婆が担当していたが、産婆では手に負えない難産や性病に罹った女性たちは羞恥心から男性の医師に体を見せることを拒否し命を落とす者も多かった。二宮は同性の医師ならばこうした女性たちを救えると考えたようだ。 さらに開国後日本にやってきた医師のポンペやボードウィン、マンスフェルトからも学び、イネは、西洋医学の知識を身に着けた女性初の医師となった。明治4年(1871)東京の築地で開業したが産科としての腕は確かで、適塾で医学を修めた福沢諭吉の推薦により宮内庁御用掛も務めた。 ところが、明治8年(1875)、医師として開業するためには医術開業試験に合格しなければならなくなった。そもそも江戸時代の医師は免許制度ではなく、医師という看板を掲げさえすれば、その日から開業することができた。もっとも素人が突然医師になっても患者はやってこないので、実績のある医師の元で修行を積んでから開業することが一般的であった。この時の試験は西洋医学を対象としたもので、それまで日本の医学の中心であった漢方医たちの反発が強かった。そこでこれまで開業していた医師たちは特別に開業の免除が与えられることになった。 だが、この医術開業免許取得女性第1号はイネではなかった。この当時、イネは開業医として忙しい時期でもあったので、無理をして受験してもと、いう思いもあったのだろう。この後まもなく、東京の医院を畳んで故郷の長崎に戻ったことも大きかったようだ。 その一方で、女性にも受験できるよう熱心に働きかけた人物がいた。嘉永4年(1851)に埼玉の名主の娘として生まれた荻野吟子(おぎのぎんこ)である。父親は教育熱心な人間で、自宅に著名な学者を招いたが、吟子もその講義を聞きたがったという。18歳で少し離れた村の名主稲村貫一郎(いなむらかんいちろう)の許に嫁ぐが、2年後に離縁されて戻ってきた。夫から淋病を移され、子どもの望めない体になったのである。その後吟子は大学東校(現在の東京大学医学部)で治療を受けるが、大勢の男性に患部をさらして治療を受けることに屈辱を感じたという。 こうした自分の経験から男性の医師に治療を受けることを拒否して病気に苦しみ亡くなる女性たちを救いたいと医師になることを決意。東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)の1期生として入学し、主席で卒業、その後も私立医学校である好寿院で学び優秀な成績を修めたものの、前例がないと医術開業試験の願書を受け付けてもらえなかった。翌年も出願するが結果は同じ。それでもあきらめきれない吟子は、様々な文献を探し、奈良時代の法律「養老令」の解説書である『令義解』に、奈良時代、女性の医師がいたという記述があることを突き止めた。これがきっかけとなり女性にも受験が認められるようになり、明治17年に吟子はほか3人の女性とともに受験、だが、合格したのは吟子1人だった。 明治18年、湯島で開業。34歳で日本初の試験に合格して医師免許を持った女性の医師となったのである。女性は医師に向かないなどの偏見があったが、この偏見に勇敢にも立ち向かう吟子の後を追って医者になる女性が徐々に増えて行った。 医師になって5年目のある日、同志社の学生で敬虔なキリスト教徒の志方之善と出会って恋に落ちた。志方は13歳年下で周囲の反対もあったがそれを振り切って結婚。この結婚が吟子に大きな転機をもたらした。志方はキリスト教徒のための理想郷を作りたいと切望し、北海道の今金町に入植。だが、開拓事業は困難を極め、志半ばで、今金町を離れなくてはならなくなる。その後も志方之善は北海道で布教に努め、吟子は開業医として多くの女性たちを診た。しかし、無理がたたったのか志方之善は41歳で亡くなってしまう。しばらく北海道にいた吟子だが、やがて東京に戻り養女のトミとともに暮らしたという。 現在においても女性が医師になるためには様々な壁が存在するが、その壁を最初に突き破ったのが、名医シーボルトの娘楠本イネと埼玉三偉人の1人に数えられる荻野吟子だったのである。
加唐 亜紀