「国家の命運は目先の軍事力ではなく経済力が決める」――大河ドラマの原作となり得る金融家の生涯
高橋財政の成功から2.26事件へ
第3部「不惑篇」では、1907~1925年頃の是清の事績が語られる。この時期の是清は日銀の副総裁、総裁を経て、政友会に所属する政治家として政界に進出する。大蔵大臣として第1次大戦に臨み、原首相の突然の死により総理大臣に就任してワシントン軍縮会議への対応に追われるが、党内の内紛で退陣に追い込まれる。しかしながら、関東大震災の混乱の中、政友会党首の立場で護憲三派内閣の農商務大臣として政権中枢へと復帰し、70歳を迎えた1925年に政界から引退する。 ここでは、政友会と憲政会という二大政党制の下で、日本の議会制民主主義が試練に直面していた様子が描かれる。日本が「一等国」の仲間入りし、種々の問題を抱えながらも政党政治の実践が行われていた時代に、是清も責任政党の党首として政治に積極的に関与していた。 著者は、第1次大戦を契機とするヨーロッパとアジアにおける地政学的変化、軍部を含めた日本国内の政治的なうねりを鋭い視点をもって描写し、是清が激動する内外情勢に翻弄されながらも格闘する様子を浮かび上がらせる。 第4部「知命篇」では、いったんは政界を引退した是清が、1927年の昭和金融恐慌、1930年代初頭の金解禁と世界恐慌下での急激なデフレの進行といった国家の危機において、伝説的存在として担ぎ出され、日本経済を回復に導いていく。 とくに、世界恐慌への処方箋としての高橋財政は、為替レート政策、金融政策、財政政策というマクロ経済政策を総動員させた景気刺激策であり、効果は抜群であった。経済的にみると、この時期の日本は大きな成功を収めたといえる。 その一方で、国家の危機が喧伝される度に閉塞感を打破する頼りになる存在として軍部が台頭し、既成政党も迎合する中で、単身これに立ちはだかるかたちとなった是清は、1936年2月の2.26事件で暗殺されてしまう。政治的にみると、日本の議会制民主主義は試練を乗り越えることができず、その後は勝ち目のない戦争に突入し、破滅的な結果を招いたといえる。