エース石川祐希の<原点>。バレーとバスケで悩んでいた小4のあの日。母がやっていたのでバスケ部に入ろうと思ったけれど…
パリ2024年オリンピックで<世界の頂>へ挑んだ石川祐希。彼はいかにして世界に誇る日本のエースになったのか? オリンピック出場にかけていた思いとは? そもそもどのようにしてバレーボールと出会ったのか――。石川選手の魅力に迫った『頂を目指して』から一部を抜粋して紹介します。 まっすぐインタビューに答える石川祐希選手 * * * * * * * ◆バレーボールとの出会い バレーボールとの出会いは、小学3年生のときだ。 1歳年上の姉が「バレーボールをやりたい」と言ってすでにクラブに入っていて、その練習へついていったことがきっかけだった。 もともと父は陸上競技の選手で、母はバスケットボールの選手。 どちらも実業団まで進んだ本格派だが、僕自身も運動自体が大好きだった。 子どものころは走るのも速くて、運動会の徒競走やリレーでは、ヒーローになれるタイプだった。 そして何より授業の合間の休み時間になると、校庭でドッジボールをするのが楽しみで、休み時間に入る前から、「俺がいちばん最初にボールを持って外に出るぞ」とウズウ ズしていた。 サッカーもバスケットボールも好きだったし、バレーボールをするよりも前は少年野球のチームにも入っていた。 姉がバレーボールを始めたからといって、自分も一緒にと思うことはなかった僕に、 「やってみたら?」と声をかけてくれたのが、僕が通う愛知県岡崎市立矢作南(やはぎみなみ)小学校のバレーボール部の監督だった。 コーチは、監督の奥さん。 体育館の外にフラフープを並べて、「バレーボールのスパイクを打つときには、こうやってステップをするんだよ」と教えてくれた。 それまでスパイクなんて打ったことはなかったけれど、ステップは練習すればすぐにできるようになった。 ちょうどその日は練習試合の最中で、監督は、 「メンバーチェンジ!」と言っていきなり僕をコートに入れてくれた。
◆人生初のスパイク ポーンと上がってきたボールに対して、習ったばかりのステップをして、ジャンプして打った。 すべて見様見真似だったけれど、意外と最初からうまくできた。 人生で初めてのスパイク得点を決めた僕は、1本か2本プレーしただけで終わったけれど、最初から失敗せずにできたこともあって、バレーボールに対して良い印象をもった。 本格的にバレーボール人生がスタートしたのはその翌年、小学4年生の春だった。 最初は何げなく姉のクラブで、「やってみたら」と言われて打っただけだったし、その後は体育の授業で楽しむ程度だった。 なのに、なぜバレーボールを選んだか。 答えは単純だった。 矢作南小学校は、4年生になったら全員が何かしらのクラブ活動に入らなければならなかったからだ。 いろいろな選択肢があるなか、何部に入るか。 迷ったのは、バレーボールとバスケットボールだ。 母は結婚して僕たちを産んでからも、趣味としてママさんバスケットボールのクラブに入っていた。 だから、母についてバスケットボールの練習にも何度も行っていて、バスケットボールをやってみようかなと思ったこともある。 何より楽しさを知っていた。