「渋沢家は財閥にあらず」: 99歳のひ孫・雅英さんが語る「渋沢栄一はパブリックな仕事を一生懸命やった人」
公益には率先垂範
雅英氏が強調したのは、篤志家としての栄一だ。600もの社会事業に参画した。 「東京養育院や日本女子大であるとか東京女学館とか、自ら院長や学長になった。ほとんどの会社には共同経営で参加しましたが、学校の方は自分が率先してやらなくちゃいけないと思ったのかもしれません。文化的な仕事には、自分の意志がはっきり出ている気がします」 「経済というより、この国はどうあるべきか、という意識を若い頃から持っていたのでしょう。普通は自分の仕事が大事ですが、栄一はバランスがいいというか、日本の国をつくるんだと、とてもうまくやったような気がします」
渋沢栄一が関わった主な社会事業(現名称)
・東京都健康長寿医療センター(旧東京養育院) ・日本赤十字社 ・東京慈恵会 ・がん研有明病院 ・一橋大学 ・工学院大学 ・東京経済大学 ・東京女学館 ・日本女子大学 ・拓殖大学 ・田園調布の開発 ・日印協会
大恩人の慶喜に報いる
渋沢栄一の偉業として挙げられることは少ないが、雅英氏は栄一が編纂(へんさん)した『徳川慶喜公伝』への思いを語った。徳川慶喜は栄一を庇護(ひご)したばかりか、フランスに派遣してくれた大恩人。実業界で活躍していた栄一は土産物を携え、静岡で謹慎していた慶喜を機会あるごとに訪ね慰めた。 伝記編纂を思い立った栄一は、東京日日新聞(現毎日新聞)社長の福地源一郎(ペンネーム=福地桜痴)をはじめ多くの人の協力を得て、20年以上かけて全8巻の『徳川慶喜公伝』を刊行した。慶喜が死んで4年後のことだった。主君であった徳川慶喜の低い評価を正したいという気持ちがあったのかもしれない。 「それはあったでしょう。彼の仕事の価値が正当に評価されていなかった」 「(二人は)本当に仲良かったんじゃないかと思います。徳川慶喜が明治にとって、どんな意味があったのか。そんなことを普通の人は考えないけれど、栄一は自分で率先してやった。日本の歴史の姿を表す一つの材料だと思ったのでしょう」 最後に1万円札の肖像に採用されたことを、もう一度聞いた。 「なかなかいいチョイスだと思っているんです。というのは、いま、ああいうタイプのリーダーは、あんまりいないのではないでしょうか」 金融は「経済の血液」にたとえられる。江戸末期、明治、大正、昭和と激動の時代を生きた渋沢栄一は令和のいま、最高額面紙幣として「血液」の役割を担うことになった。グローバル資本主義が格差と分断を招いているこの時代、新1万円札を手に栄一の「道徳経済合一説」に思いをはせたい。 撮影=大沢 尚芳
【Profile】
谷 定文 ニッポンドットコム常務理事・編集局長。1954年、東京都生まれ。上智大学外国語学部卒業後、時事通信に入り、経済部長、編集局長、常務取締役などを歴任。88~92年にはワシントン特派員として、激しさを増す日米貿易摩擦を最前線で取材した。2016年から現職。