帰省中に能登半島地震で被災―。孤立した古里で、つながりを感じた6日間 来春から社会人の22歳「経験を生かしたい」
近くの市民プールでスマートフォンの電波がつながると、人づてに聞いたのは4日目。車を5分ほど走らせ、ようやく大学やアルバイト先、友人らに「家族は全員無事です」「家を失い、現在避難所で生活しております」などとメッセージを送ることができた。 5日目の夕方には県南部に住む叔父が、通行できそうな道路を息子にインターネット上の口コミ情報から調べてもらい、小学校まで来てくれた。それまで、パンなど水分のない冷たい食料ばかりだったが、「この日の夜にカップラーメンを食べて、やっと温かいものを口にすることができた。本当にうれしかった」と笑う。 ▽東京の日常「夢かな」 6日目を迎えた朝、「この先どうなるか分からない。帰れるときに自宅に帰った方がいい」と、姉、父方の祖父母と叔父の車に乗り、金沢へ向かった。被災前の倍ぐらいとなる4、5時間をかけてようやくたどり着くと、そこで目にしたのは、地震の前と何も変わらない人々の様子。北陸新幹線に乗り、着いた東京も普通の日常が広がっていた。姉とは思わず「不思議だね」「夢かな」と言葉を交わしていた。
古里で過ごしたのは、支援が届く前の一番苦しい時間。「地震に遭ってよかったとは思わないが、実家に帰っていたから祖父母を助け出し、苦しいときに家族で協力することができた」と力を込める。 被災生活中、近所の住民で所在が分からない人がいると、みんなで情報を共有した。不明者の名前が避難場所のホワイトボードに素早く書き込まれ、それによって次々に居場所や安否が家族にもたらされた。「都会では隣にどんな人が住んでいるかも分からない。助けてくれる人もいないかもしれない。人と人のつながりのありがたさを、改めて実感することができた」 ▽地震を経て考えるようになったこと 大学には1月11日から通うことができた。被災を経験し、「水道や電気、通信、道路などインフラの大切さを実感するようになった」と意識の変化を語る。就職活動では、両親は「思い通りにすればいい」と背中を押してくれた。大手自動車会社で働くことを目指し、移動手段としてだけでなく、寝泊まりや暖房機能、バッテリー機能、ライトによる明かりなど、災害時に果たせる車の役割の重要性を説明。「自分の経験を生かして頑張れる仕事に就きたい」と訴え、就職を決めた。