帰省中に能登半島地震で被災―。孤立した古里で、つながりを感じた6日間 来春から社会人の22歳「経験を生かしたい」
逃げ道を失い、しかたなく選んだのは、実家の目の前にある母校の小学校だった。時間は午後5時前。2階にある畳敷きの部屋に入ると、床は冷え切っていた。降ってはいなかったが、外に積もった雪が残っている。停電で、日が暮れれば暗闇で身動きが取れない。実家へ戻り、布団や毛布、厚手の上着など寒さをしのげる最低限の物を急いで運び込んだ。正月用に買った菓子などの食料を抱え、冷蔵庫の食材で傷みそうなものは、雪に埋めて保存した。 不気味な余震は続き、近くの中学校や公民館にも次々と住民が集まってきた。ストーブの備えは公民館だけで、逃げ出したときに着ていたパジャマにダウンジャケットをはおって体温を保った。やがて真っ黒な暗闇に包まれた。 畳敷きの部屋には当初、4家族が身を寄せ、持ち込んでくれたおせち料理を丸く囲んで分け合った。「あまり喉を通らなかったが、『みんなでいれば大丈夫』と励まし合い、気を紛らわすことができた」。それでも、生き埋めになった隣家の夫婦のことが心配で寝付けなかった。
日が昇っても、目に映るのは崩れ落ちた建物ばかり。配られた食料はわずかなビスケットなどだけで、水が飲めないせいか、手足がつるといった体の不調も感じた。不安ばかりが募るときに心の支えになったのは、避難先で久しぶりに再会した同級生たちと交わした、たわいのないおしゃべりだった。 ▽ようやくスマホ復活 3日目、自衛隊のヘリが小学校のグラウンドに着陸し、外部とのつながりができた。それでもほとんど情報が届かない中、父方の祖父母の家がある集落へ抜ける道が通行できるようになったと、うわさを耳にした。父と車に乗り込み、少し手前から路面が割れた道路を歩いて通るしかなかったが、2人に再会できた。家屋の床が落ち、裏の崖からは落石が起きていた。 日中は玄関で過ごし、夜は車で寝泊まり。備蓄されていた米と水を父の車に積んで小学校へ移動し、親族8人がそろうことができたことを素直に喜び、「心配なことはあるが、後で考えよう。今は生きているだけで幸せ。できるだけ元気にしよう」と話し合った。