帰省中に能登半島地震で被災―。孤立した古里で、つながりを感じた6日間 来春から社会人の22歳「経験を生かしたい」
「被災した経験と学術的に学んだことをそこで終わらせるのではなく、きちんと知識として自分の身に付けたい」。大学生活も残り半年程度となり、今は卒業論文の準備に励む。所属するゼミは、民間が解決できない課題を行政がどう解決するかを考える「公共選択論」が専門。避難生活中は、自身も被災しながら、輪島市職員として物資の仕分けや配布など、住民を懸命に支える母の姿を見た。 日常生活でも、自宅近くには氾濫の危険がある河川が流れており、地域のハザードマップや避難所を確認し、水など災害時の防災グッズを準備。「首都直下地震や南海トラフ地震が、いつ自分の身に降りかかってもおかしくない。そのとき、どう行動するべきか、いつも考えるようになった」と自身の変化を語る。 ▽静寂が広がる仮設住宅で、古里を思う 8月、夏休みに町野町を訪れると、被災の爪痕はまだ深く残されていた。がれきでふさがれていた道路はなんとか車が通れるようになっていても、そのすぐ脇には家屋が押しつぶされた状態のまま連なり、黒い瓦屋根が夏の強い日差しを浴びていた。同じ集落にあった約65軒のうち、倒壊しなかったのは実家を含めて1割にも満たないといい、「何も変わっていない」と思わず言葉が漏れた。
液状化で沈み込んだ電柱は空間がゆがんだように斜めに立ち、石造りの神社の鳥居はばらばらになって草むらに埋もれている。遠くの山肌には、緑の木々を押し倒して茶色にえぐれた土砂崩れの跡が何カ所も目に入り、美しかった棚田は手入れをする人がいなくなり、背の高い雑草に覆い尽くされていた。 土地を離れた住民も多いせいか、日中でも人影は少なく、小学校裏に建てられた仮設住宅に静寂が広がる。それでも、支援物資の配給時間には住民が次々と姿を見せ、なじみの顔を見つけて笑顔を浮かべながら言葉を交わしていた。掲示板には、焼きたてのたこ焼きを提供するイベントや定期的に催されるお茶会の案内など、交流を絶やさない取り組みも続く。 復興への道のりが長く、厳しいことは否めない。最もつらいのは、人々の記憶が薄れていくこと。莉子さんは古里への思いをこう話す。「何年、何十年とかけて築いた街も一瞬で壊れてしまう災害は恐ろしい。住む家を失い、土地を離れる人も多いかもしれないが、ここでの暮らしを忘れることはない。これからは、慣れない仮設住宅での生活が続く人、つらい思いをする人がいるかもしれない。地震のことを風化させないためにも、できるだけ帰ってきて協力したい」。
そして、決意を示すように「いつでも、どんなことでも困っている人の心を支えられるような社会人になっていきたい」と言葉に力を込めた。