「サッカーを辞めてしまおうと...」ブレイク中の湘南FW福田翔生が語る“血反吐を吐く想いだった”過去【インタビュー前編】
大好きなサッカーに常に付きまとった“焦燥感”
「使ってくれれば活躍できるという自信はあった」 プロ1年目の19年、ひたむきな姿勢でトレーニングに励んだが、思うような出番は訪れず。同年、チームがJFLで3位に入り、J3昇格を果たしたなかで、翔生は公式戦3試合のみの出場にとどまった。 2年目はスペイン人のリュイス・プラナグマ監督の就任で風向きが変わり、小倉南時代からの武器であるドリブルを買われてリーグ戦18試合に出場。プロの舞台でどう振る舞うべきなのか、感覚を掴みかけた。 しかし、21年の5月にリュイス監督が解任されると、たちまち序列が下がった。必死のアピールも実らず、3年目は3試合、4年目は12試合の出場。その間、先発は1度のみで、シーズン終了後にクラブから戦力外通告を言い渡された。 苦労の連続だった今治での4年間は、どんな日々だったのか。本人は言葉を詰まらせながら「血反吐を吐く想いだった」と回想する。 「兄ちゃんの活躍を見て、早くJ1でやりたいという想いがあった。4年間を通して、常に“もっとやらないと”と焦っていました。普通の練習を真面目にこなしても試合に出られないから、定められた時間以上に、もっと練習をする。それでも試合に出られないと、さらに練習を増やす。監督やコーチに『やりすぎだ』と止められることもあったし、時には練習をしすぎて怪我をすることもありました。 正直、必死だったし、一秒でも早く上に行きたかったんです。自信はあったけど使ってもらえず“なんでだよ”と思ったこともあったし、使ってもらえないということは、今の自分を評価してもらえていないんだと、良くない方向に考えを巡らせたり...完全に負のサイクルでした」 4年間、サッカーが好きだという想いに変わりはなかった。上達のために、1日中サッカーのことだけを考えて、行動した。ただ、大好きなはずのサッカーには、常に焦燥感が付きまとっていた。 「俺に休んでいる時間はない。もっともっと突き詰めてやらないといけない、というのがずっと頭にあったから、やりすぎた。追い込みすぎてリラックスできる時間がほとんどなかったし、そんな生活を繰り返しても、試合には出られない。サッカーが大好きなはずなのに、常にネガティブなことを考えているような状態で...。今治在籍中、もうサッカーを辞めてしまおうと思った時もありました」 絶望の淵に立たされた翔生を救ったのは、家族の存在だった。 「家族が支えてくれなかったら、今の自分はないです。多分、壊れていました。常に『翔生なら絶対に大丈夫だから、やれるだけやっておいで』というスタンスでいてくれたし、サッカーを辞めるか悩んでいた時は、両親が九州から会いに来て、抱きしめてくれた。そこで“俺はこの人たちのために戦うんだ”と思えたんです」 22年末に今治から契約満了を言い渡された時も、家族の支えがあったという。 「クビだと言われた時は頭が真っ白になって、何も考えられなかった。他のクラブからのオファーもなく、また心が沈みそうになっている時に、両親が『いつでも辞められるんだから、もうちょっと頑張ってみたら?』と言ってくれて、『絶対に見返してやる』と火が付いたんです。 また、新しいチームが決まるまでの期間は兄ちゃんと凌生もトレーニングに付き合ってくれて。毎日、『チーム決まらない。やばい。どうしよう』と話していた覚えがあるんですけど、いつも励ましてくれました」 家族のサポートで再び前向きにサッカーへ取り組み始めたものの、新たなチームが決まらず落ち着かない日々を過ごす。そこへ、クラブ探しに奔走していた代理人から一本の電話がかかってきた。 取材・文●岩澤凪冴(サッカーダイジェスト編集部)