ヤマの暮らしの記憶をいまに 福岡県田川市の炭鉱住宅モニュメント
福岡県田川市の中心部に、大きな壁がぽつんと立つ広場がある。この現代アートを思わせる壁は、完成から10年が過ぎた「炭鉱住宅モニュメント」。市によると、大通りから少し入った場所にあるためか、市民でも存在を知らない人が多いのだという。 【写真】地域の歩みを後世に
ともに生きる大家族
炭鉱住宅モニュメントはその名の通り、かつて炭鉱労働者と家族らが暮らした松原炭鉱住宅の跡地に作られた記念碑だ。国内最大の産炭地として日本の近代化を支えた筑豊地方。最も人口密度が高いエリアの一つが、三井田川鉱業所伊田坑のお膝元に広がる松原炭鉱住宅だった。1936年(昭和11年)に建設が始まった炭鉱住宅は、約500棟1700戸ほどを数え、筑豊でも最大規模の長屋街となった。
昭和30年代には人口が10万人を超えた田川市。市石炭・歴史博物館の学芸員によると、西日本を中心に各地から労働者が集まり、最盛期には15あまりの映画館や演芸場などがひしめき合っていたそうだ。
博多や小倉とはまた違う住民気質と文化が生まれた筑豊地区は"よそもの"を受け入れる土地でもあった。坑内での労働はチームで行う命に関わる仕事。その一体感は、普段の生活の中で、固い結束力と助け合いの精神につながったようだ。
味噌(みそ)や醤油(しょうゆ)がなくなると、当たり前のように隣へもらいに行き、雨漏りがあると自分の家を顧みずに手を貸した。炭鉱住宅で暮らす仲間は家族も同然――。そんな日常がここにあった。 炭鉱街のにぎやかな生活も、エネルギー革命で終わりを迎える。石炭産業の合理化政策が進められ、1976年を最後に筑豊の炭鉱は姿を消した。人口は一気に減り、老朽化した長屋の取り壊しと新たな市営住宅の建設が議論されるようになった。
歴史を伝える記念碑
多くの市民、特にかつて炭鉱で働き、長屋で暮らした人々は解体を惜しみ、「田川の歴史を伝える財産。保存するべきだ」と声を上げた。一方で同時期、世界遺産登録の機運が高まり、海外の専門家からは、二本煙突と竪坑櫓(たてこうやぐら)、そして松原炭鉱住宅を残して、登録を目指してはどうか――との提案もなされたという。