【武田砂鉄が気鋭美術家の初エッセイ集『なめらかな人』を読む】世の中を背負わない
気鋭のアーティスト百瀬文さんによる初エッセイ集『なめらかな人』が刊行されました。 武田砂鉄さんは本書を「この本を読んでいたら、揺らいでいていいと思える」と評します。 刊行を記念して、群像7月号掲載の書評「世の中を背負わない」を特別公開します。
「世の中」って誰だ
ある人について、自分に似ていると思う。やっぱり似ていないと思う。この繰り返しってあちこちで生じているものだが、どうして似ているのか、似ていないのか、深掘りしてみても、正直よくわからない。よくわからないまま、人に近づいていき、あるいは近づかれ、一緒になったり、一緒にならなくなったりする。暮らしていると、人はどんどん流れていく。どうしても人は死んでしまうし、ある仕事が終われば会わなくなるし、ちょっとだけ雑談できるようになった隣の隣の部屋の人は知らぬ間に引っ越していく。 人と人とは、ずっと正体をつかませないまま存在し合うのではないか。自分の場合、一番近くにいる存在は妻だが、いまだによくわからない部分がある。わかってたまるかと思うし、わかられてたまるかと思っているはず。これでいい。他人の結婚披露宴に出席して、司会者が「〇〇を経て、お互い通じ合い……」とか、「今日こうして永遠の愛を誓い……」なんて常套句を重ねているのを聞くと、「通じ合うとは何か」「永遠とは何か」などと、新書のタイトルにすればそれなりに売れるかもしれない命題が浮かんでしまう。関係性を確定し、それを共有することへのためらいの無さにたじろいでしまう。 ---------- 「たとえこの地球に散り散りに住むことになったとしても家族でいられるように、わたしたちは将来の約束をしないのだと思う」 ---------- 美術家・百瀬文のエッセイ集にこうある。百瀬は、二人の男性パートナーと同居している。二人とも「大切でかけがえのない存在」だが、それが「恋愛感情」なのかどうか、相手がどう捉えているのか、揺らぎがある。だから約束をしない。もちろんそれは、今がよければいいじゃん、ではない。将来を約束しないのは、将来を放り投げているのではなくて、その都度考える誠実さを手放したくないからなのか。 いわゆる普通とされる暮らしをしている人の前に、そうではない暮らしをしている人が現れると、その暮らし方を理解できるかどうかといった尺度が登場しやすい。どうして理解しなければなんて思うんだよ、と心の中で舌打ちをする。 二人の男性パートナーと同居する女性の暮らし方はおそらく理解されにくい。でも、なんで、暮らし方って、よくわからない他の誰かに理解されなければいけないのだろうか。人間の関係性を評価する上で、「でも、本人たちがいいならそれでいいよ」という評価がある。割と、寛容な評価として受け取られがちではあるのだが、そんなのいいに決まっているだろ、である。そもそも、おまえはどうして評価しようとしたんだよ、という苛立ちがある。でも、表に苛立ちを出すと面倒なので、心の中で煮込んでみる。 少し前に『世の中と足並みがそろわない』と題されたエッセイ集を読んだが、世の中と足並みなんてそろえてはいけない。だって、「世の中」って誰だ。世の中くんや世の中ちゃんがいるわけではないのだ。 ---------- 「「産まない」という状況は、つねに「産む」を「しない」という否定文で語られる。「しない」を使わずにそのまま肯定文で説明できるものごとは、ある種社会の中で自然化されていると言ってもいいものごとなのかもしれない。そもそもそういった二分法でしかお互いの身体のことを語れないということ自体が、なにかわたしたちの健康を静かにむしばんでいるような気がしてしまう」 ---------- ある女性の学芸員から「でも実際、子どもを産むと、作品はかなり変わると思いますよ」と言われた経験から始めるエッセイで違和感をこのように綴っている。 私は、結婚しているけれど子どもがいるわけではない状態で妻と二人で暮らしているのだが、この「でも実際」をよく浴びる。産む・産まないの主体ではないので、作品が変わると思いますよとは言われないが、多くの人が通るステップアップの段階を乗り越えると見える景色が変わるはず的な忠言を頂戴する。 「しない」を選び抜いたり、結果的に「ない」になったりする状態もまた、日々の歩みの中の、それはそれは正直な延長線上にあるのだが、なぜか、社会的に○とされる状態に対抗して△や×のような状態にあると位置付けられる。気を遣われたり、「でも実際」がやってくる。普通こうするものでしょう、と人に強いる人は、その普通の効果・役割を大きく見積もって、勝手に見積もったそれを相手に投げつけてくる。痛いし、迷惑なのだが、投げつける目はなぜか「世の中」を背負っている。誰だよオマエ、背負ってんじゃねぇよと、脳内では乱暴な言葉が飛び交っている。 「花というものに対する距離感がいまだによくわからない」。自分もよくわからない。きれいな花束を見ると、きれいにするために間引かれた草花のほうを想像して、急いで同情したりもするのだが、正直たいした同情ではないので、すぐに消える。完成した花束はきれいなのだが、「きれい!」でいいのかと思いつつ、みんな「きれい!」と言っているし、「きれいってことでいいのか」とわざわざ口にはしない。 色々なところで口ごもっている。わだかまりや不安の中を生きている。ずっとこの状態。そればかりで嫌になるけれど、実は根本から解消されるとは思っていない。付き合い方を探している間に時間が経ってしまう。 ---------- 「不安は、常にその不安の根源を排除しようと試みる。だからこそ、この感情をいったん自分のなかに受け入れた上で、それがほんとうに妥当なものであるかどうかを考えなければいけないのだ」 ---------- 関係性は揺らぐ。考え方は揺らぐ。普通とされる関係性がある。考え方がある。揺らいでいるものと固まっているものがぶつかると、どうしても固まっているものが強いのだけれど、なんとか揺らいだままでいられないものだろうかと考える。常に不安を飼いならした状態になるが、この本を読んでいたら、揺らいでいていいと思える。それは共感とは違った、差異をそのままにして個々の状態を信頼してくれるたくましさがあるからなのだろう。
武田 砂鉄(ライター)