「何をもって良い俳優となるのか、答えを探し続けている」池松壮亮の美学と譲れない信念
Bezzyによる映画『本心』リレーインタビュー第3弾に登場するのは、主演の池松壮亮。 「大事な話があるの」と言い残し、母が突然急逝した。母は死ぬ前に何を考えていたのか。その本心を知るために、息子の朔也はVF(ヴァーチャル・フィギュア)技術を使って母を蘇らせる。 平野啓一郎の原作に惚れ込み、自ら映画化を熱望した池松。近年、俳優が作品の企画や制作に携わる機会も多く、池松のアクションもそうした時代の流れの一つのようにも思えた。だが、決して潮流に乗って手を出したわけでもなければ、自らの功績を声高に主張することも良しとしない。その職人的で寡黙な姿勢にこそ、池松壮亮という俳優の生き方と美学があった。 【撮り下ろし写真多数】今年はドラマ『海のはじまり』や映画『ぼくのお日さま』『ベイビーわるきゅーれ3』などに出演し、実力派として確固たるポジションを築く池松壮亮
映画づくりにおいて、誰が何を担うかは自由でいい
──本作は池松さんが原作をお読みになって、監督に映画化を持ちかけたそうですね。普段からそういうことはよくされているんですか。 たとえば映画を観たり小説を読んだりして、こういう作品ができたらいいなというイメージは常に頭の中にあります。これまで叶ったもの・叶わなかったものありますが、今回が初めてというわけではありません。うまくいくとは限りませんが、考え抜いた末にそれでも読んでみてもらいたいなと、今作の話を石井さんにしました。 ──池松さんはこの原作のどこにそれほど心を掴まれたのでしょうか。 原作に出会ったのは、2020年の夏──まさにコロナが蔓延している最中でした。フィジカルな出会いが制限され、映画は不要不急と言われ、これまで当たり前とされてきた価値観が崩壊する中、これから映画を通して何を伝えていけばいいのか、誰もが暗闇の中にいた頃でした。僕自身も光を見出せずにいた中で、たまたま出会ったのが『本心』でした。 この作品は2019年9月から連載が始まったものでありながら、アフターコロナを捉えた物語となっていて、これからの社会に漠然と抱く、まだ言葉にならない不確定な不安とその世界で生きることが描かれていました。未来で行き場を失う朔也の物語に、これはこれらの時代を生きる自分の物語であり、私たちの物語であると感じました。 ──今のお話を聞く限り、池松さんはテクノロジーの進化した社会についてあまりポジティブに捉えていないということでしょうか。 ポジティブかネガティブかというと、残念ながら現状は非常にネガティブだと思います。僕自身もテクノロジーによって築き上げられた文明社会でその恩恵を日々受けながら生きているわけで、単純にテクノロジーに反対という話をしているわけではありません。ただ、『本心』で描かれているようなこれからの世界のAIやテクノロジーについて、その止めらない急速な進化に我々の認識や物語が追いついていないのではと不安になります。AIという脅威に向かってやんわりと夢遊病のように向かっているのではないかと感じています。 2022年末からChatGPTが世界に広まり、2023年は世界的にAI元年と呼ばれる年になりました。日本でも生成AIがニュースで度々取り上げられているのを目にしました。生成AIに踏み込んだこれからの世界は、人類が原発を手に入れたことと酷似していると専門家の間で言われています。言語を身につけ、物語を語る存在が、私たち人間の他にもいる時代に入ったのだと思っています。そうした神の力を持つテクノロジーと共に生きていかなければならない時代を、いまのところ決して楽観視はできないかなと思っています。AIに職を奪われるということも差し迫った問題ですが、そうした時に、本心すら曖昧な我々の心はどうなるのか、ということを少し先の未来で描いてみようというのが本作です。 ──映画化を進めるにあたり、監督やプロデューサーと一緒に平野先生のもとへ挨拶しに行ったそうですね。俳優がそういった場に同席することはめずらしいように感じますが。 初めてのことでした。いち俳優が出過ぎたまねのようにも思いましたが、言い出しっぺである人間の顔が見えたほうがスムーズかもしれない、説得材料の一つになれるかもしれないと思い同席しました。 ──近年、俳優が企画やプロデュースに参加する機会が増えています。池松さんもやはりそうしたことへの興味がおありなのでしょうか。 もともと自分自身の興味の出発点は、演じることだけというよりも、演じることを含むものづくりにありました。だから、人よりも関心が昔からあるのだと思います。ただ、映画づくりにおいて俳優がこういうところまで関わりました、ということは僕にとっては退屈なことだったんですね。 ──退屈? 宣伝において有効であることは分かりますが、語る必要がないと思っていたんです。たとえば、あのシーンのあの演技は台本にない俳優のアドリブだったという裏話が話題になることがよくありますが、僕はああいうものに興味がないんです。 僕にとっての映画づくりとは、そこで出会った人たちと一体となって混ざり合って良いものを目指す純粋なものであって、映画とはその結果にあたります。だからそのクリエイティブの経過において誰が何をしたという話はどうでもいいことでした。ですから今後もプロデューサーであるとか、そうした肩書きがほしいからやるというつもりはありません。誤解のないように付け加えると、俳優がある線引きを超えてやりたいことをやれる環境になってきたことはとてもいいことだと思っています。単純にその作品のことをより考える人が自由にその役目を担った方が映画にとっていいと思いますし、それがいち俳優であってもいちスタッフであってもいいと思っています。 ──おっしゃる通り、誰が何をしたという裏話みたいな話は、観客が作品を楽しむ上では特に必要のないこと。けれど、取材の場では時にそうした話を積極的に求められます。池松さんは観客のノイズとなるようなことをあまり話したがらない方なのかなという印象がありました。 一方で物事はそう単純なものではないので、作品をPRする上で、自分がなぜこの作品を良いと思い参加したのか、今回どんなことをやったのかということくらいちゃんと自分の言葉で観てもらう方に伝えるべきだと思っています。ノイズにならないことを選ぶということは、現代において見てもらうことの放棄にもなるので、作品にとってノイズかどうかは、宣伝においての伝えるということと一緒に考えることはできないものだなと思います。