「ここ10年で一番弱い」…幾多の苦難を乗り越え結束した京都国際初優勝の裏側
◆ 夏の甲子園3度目の出場で初優勝 第106回全国高校野球選手権大会は、京都国際(京都)が夏の甲子園3度目の出場で初優勝を飾った。 京都国際は2021年の選抜大会で春夏通じて甲子園初出場を果たしてから7季目後の甲子園大会で日本一を達成した。 急速的な躍進は、直近2年で投手3人がNPB入りしている投手育成能力の高さとセンターラインを中心とした堅守に支えられてきた。 今大会は初戦から準々決勝までエースの中崎琉生(3年)か背番号11の西村一毅(2年)のいずれかが完投し、準決勝と決勝は「左腕二枚看板」の継投策で勝負した。一方の守備陣も準決勝まで1試合1失策と安定しており、同校の強みを最大限に生かした躍進となった。 その裏側で、現チームは投手と野手が結束するまでに幾多の苦難を乗り越えていた。 新チーム結成当初は得点力不足が課題で、指導者は選手に「ここ10年で一番弱い」と告げるほどだった。 昨秋には近畿大会4強入りを果たして選抜出場を決定づけた。ただし、エース・中崎のフル回転に頼らざるを得ない状況だったのもまた事実だった。 打力向上を掲げる野手陣は、冬場に徹底的な振り込みを行った。しかし、すぐに成果が現れるわけでもない。次第に投手と野手の間に心の溝が生まれるようになっていった。 選抜本番が直前に迫っていた頃だった。不穏な空気を感じ取っていた選手たちが「投手も野手も本音で話し合おうや」と声をあげ、選手間ミーティングが開かれた。 正遊撃手の藤本陽毅(3年)が真っ先に口を開き、「俺が引っ張るから」と熱い思いをぶつけた。 すると中崎は「本当はエースと主将の兼任が苦しくて…」と涙を流した。 中崎には最も心を許す仲間がいた。同じ左腕として入寮初日からキャッチボール相手を務める山村遥(はる=3年)だ。 ある日、寮の部屋を訪れた戦友から「野手もどの高校よりも練習してるで。支え合おうや」と伝えられた。 中崎は責任感に押しつぶされそうだった日々を乗り越えて、野手を信じて腕を振ることを覚えたのだ。 ◆ 「日本で一番練習してきたことは間違っていなかった」 今春選抜の青森山田(青森)との1回戦では、先発した中崎が3―3の9回にサヨナラ打を浴びて初戦敗退となった。許した劇打は、内角要求が真ん中に入った失投だった。 選抜後、中崎は投球練習で打者を打席に立たせて内角へ投げ込んだ。打者役を務めてくれる選手たちは、そろって「俺に当てていいから」と言ってくれた。 夏の甲子園で成果を示した。その象徴が完封勝利を挙げた西日本短大付(福岡)との3回戦だった。 「内角を投げられたから外角が生きた」と振り返ったように、直球で内角を突きつつ、勝負球で外角スライダーを多投して14奪三振を数えた。そのうちの7三振の結果球がスライダーだったように、懐を攻められた打者は外角の曲がり球に手が届かなかった。 今春選抜以来の再戦となった青森山田との準決勝では、先発した中崎が4回2失点と本領を発揮できず、西村にマウンドを譲った。その試合後、グラウンドをあとにしてから中崎は悔し涙を流した。 関東第一(東東京)との決勝で2試合連続の先発を任された中崎は、「決勝に連れてきてくれた恩返しをする」と奮い立ち、9回4安打無失点の力投で延長戦に持ち込んだ。 2番手の西村が2点優勢の延長10回を1失点(自責0)に抑えて決着。三塁ベンチから我先にとマウンドに駆け寄る中崎の姿には、投手と野手の間で気持ちがすれ違っていたの頃の面影などなかった。 中崎は「日本で一番練習してきたことは間違っていなかった」と言った。 それは自身の努力だけを指しているわけではない。夜遅くまでバットを振る野手を見てきたからこそ生まれた言葉だった。 今回の優勝は、突出した個の力に頼ったものではなかった。投手と野手の力が見事にかみ合ってかなえた悲願だった。 文=河合洋介(スポーツニッポン・アマチュア野球担当)
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