都電の線路の「出土」なぜ相次ぐ? 舗装の下にまだまだ眠ってる!? 発見された遺構の「その後」
お茶の水橋に続き白鳥橋でも
かつて東京都心部には都電の路線網が張り巡らされ、最盛期には41の運行系統がありましたが、1970年代にほとんどの路線が廃止されました。道路併用軌道(路面電車)がほとんどで、戦後の道路交通法によって軌道敷内への自動車乗り入れが開放されるや否や、慢性的な渋滞と重なって定時運行の妨げとなり、廃止の原因となったのです。 廃止後の併用軌道はレールと敷石が剥がされなければなりませんが、東京中に張り巡らされた軌道の撤去は莫大な費用がかかります。東京都交通局によると、「東京都が国に働きかけた結果、国の指針で軌道を撤去せずとも上から舗装すればよい」という経緯があったとのことです。 もうひとつの都電遺構とは 現在は別場所にて保存(写真) しかし簡易的に舗装を行なった場所は、経年劣化によってレール部分に沿って舗装がヒビ割れました。後年、再舗装工事によって埋められた軌道が撤去され、多くの場所で軌道は跡形もなく消えていったのでした。 すっかりと都電遺構は忘れ去られて久しい2020年1月、神田川に架かるお茶の水橋改修工事の際に、1944(昭和19)年に運行休止となって廃止された錦町線の併用軌道が出現しました。舗装を剥がすと複線の併用軌道が残っていたのです。軌道は北側部分がカーブする線形となっていました。錦町線は1905(明治38)年のお茶の水橋架橋で敷設され、2代目の橋は1931(昭和6)年に竣工。軌道も整備し、戦時中の休止まで都電が走行したのです。 発見された軌道は調査され、小ブロック状の御影石(稲田石)が敷石となり、英国ボルコウ・ボーン社製溝付きレール、米国ローレン・スティール社製と国産の官営八幡製鉄所製の標準レール(平底レール)が使用されたことが判明しました。
「レール保存会」が立ち上がった
溝付きレールは頭部分に溝が入り、車輪のフランジ側が細くせり上がってガイドの役目をする特殊構造で、車輪脱線防止の効果があります。溝付きレールはカーブ内側にあって、標準レールはカーブ外側と直線部に使用され、枕木は鉄製のアングル材をレールに固定した構造で、これは橋上の重量を軽減する目的がありました。レールは「1930年」の刻印があり、2代目橋の整備時に用意されたものとなります。 戦時中に忘れ去られた軌道が令和の時代に現れたと、連日連夜ギャラリーが詰めかけるほど話題になり、貴重な産業遺産を保存できないかと「お茶の水橋都電レール保存会」までが発足。活動が実って一部のレールと敷石は数か所に保存され、日本大学理工学部船橋キャンパス内の「CSTミュージアム」にも展示されています。 CSTミュージアムでは溝付きレールと標準レールが切断保存され、特に屋外の展示では併用軌道が2mほど復元されており、工事での路面カッターの痕跡もきれいに修正されています。敷石とレールの断面部も見せるユニークな展示方法となっており、レールと敷石がセメントで固定されている構造も観察できます。 『鉄道工学大意』や『軌道敷舗装資料集』などの戦前の書物によると、都電の軌道舗装は数種類存在し、明治期より一般的だったのは「板石舗装」という大振りな敷石が横に並ぶ構造でした。その敷石は都電廃止後でも再利用され、例えば銀座の歩道に再利用されています。 一方、お茶の水橋では異なる軌道舗装でした。その様子も復元され、軌道中心と外側は小ブロックの石が横に並び、レールを挟むようやや大きめの石が縦に並ぶ構造となっています。石の種類は稲田石を使用したとのことです。 さて、もう1か所の都電遺構が2024年8月に発見されました。同じく神田川にかかる白鳥橋(文京区と新宿区)で、橋梁撤去のために舗装を剥がした際、39系統の複線併用軌道が現れたのです。場所は首都高速道路5号「池袋線」の直下でした。