都電の線路の「出土」なぜ相次ぐ? 舗装の下にまだまだ眠ってる!? 発見された遺構の「その後」
往時はどんな橋だった?
発見された軌道は複線分で、橋全体にかけて残されていました。39系統は早稲田~厩橋間を結び、1968(昭和43)年9月28日が最終運行、翌日に廃止となりました。現在は都バス「上69系統」が路線を引き継いでいます。 なお白鳥橋の併用軌道は今回が初の“出土”ではありません。実は、1989(平成元)年8月の路面工事中にも出現したことがあるのです。当時、共同通信は「20年ぶりにアスファルトの下から現れた」と報じ、その後再舗装されて埋められたのですが、今回35年ぶり2度目の出現となりました。 しかし、この併用軌道は三たび埋められることはありません。今回の白鳥橋架け替え工事は神田川の河川整備事業の一環で、水害への安全性を高めるために、4年間かけて護岸改修と架け替えを実施するのです。再び出土した軌道は11月までに撤去しなければなりません。そこで東京都では、遺構の無料公開を10月15日と16日に開催し、2日間で約2000人の来場者がありました。これほどまでの来場者数は驚きですが、多くの人々が都電遺構に関心を寄せている証左とも言えましょう。 白鳥橋は1936(昭和11)年に架橋された、単純プレートガーダ―橋です。I型鋼を並べて組み合わせた構造で、橋梁のなかでは基本的なタイプとなり、桁の上部に歩道、道路、軌道がセットとなった鉄道道路併用橋でした。 39系統は早稲田停留所を発つと、白鳥橋の新宿区側で15系統(高田馬場駅前~茅場町)と分岐して、橋上では若干カーブしていました。そこに大曲停留所があり、乗客は自動車を避けながら電車に乗るという状況で、広島電鉄の小網町電停のような安全地帯のない停留所でした。
都へは保存の申し出が来ている
見学会はあらゆる角度で遺構を観察できました。カーブの内外ともに溝付きレールで、軌道の延長線上には急坂の「安藤坂」が見えます。約66パーミル(1000m進むと66m上る)の勾配があり、39系統の難所でした。早稲田行きだと安藤坂を下った先に白鳥橋が控えているため、滑りやすい雨の日は運転士も気が抜けなかったことでしょう。 軌道舗装について、敷石は小ブロック状のものを敷き詰めたもので、お茶の水橋の錦町線遺構よりも小ぶりな印象です。敷石は一般的に御影石を使用し、都電では稲田石を多用していました。おそらくこれも稲田石かと思われますが、見学会の会場では確認できませんでした。敷石の形状から、板石舗装ではなく「ブロック舗装」と表したほうがしっくりきます。 都電の遺構はすでに出尽くした感がありますが、まだどこかに埋まっている可能性はあります。廃止から半世紀以上経過したいま、道路工事で舗装を剥がしたらヒョコッと軌道と敷石が現れるかもしれません。 白鳥橋の遺構は、見学会が終わると工事が再開して解体へと着手されます。東京都は保存の申し出を受け入れており、いくつか問い合わせがあるとのこと。錦町線遺構のように、末永く保存されることを願っています。
吉永陽一(写真作家)