道長にとって「好都合」な存在だった藤原公季
公季は村上天皇にたいそうかわいがられ、皇子同然に育てられたらしい。一方で、公季の皇子のような振る舞いに、守平(もりひら)親王が嘆いたとの逸話も残る。8歳の頃に姉・安子も亡くなったというから、ほとんど肉親のいない孤独を感じるなかでの、行動や言動が見られたのかもしれない。 967(康保4)年に元服。正五位下、侍従、備前守、播磨権守などを歴任したのち、981(天元4)年に従三位。円融(えんゆう)天皇の治世だった983(天元6)年には参議となり、公卿に列した。 その後、近江守、春宮大夫、按察使、左大将などを経た後、995(長徳元)年には大納言に任じられた。同年は伝染病が流行し、大納言以上の大官が多数亡くなったことを受けての人事だった。997(長徳3)年には、道長の政敵だった藤原伊周の失脚に伴い、内大臣に就任。この時、道長が左大臣、藤原顕光(あきみつ)が右大臣となっており、公季はこの政権において彼らに次ぐ地位となった。 なお、この頃の筆頭大納言には道長の母違いの兄である藤原道綱(みちつな)が就いている。道綱は無能で知られる人物だったから、それ以上の昇進がなかった一方、公季と顕光も際立って有能だったわけでもなく、ことさら権力を掌握しようとする様子もなかった。道長にとっては政権運営の手綱が握りやすく、それゆえに盤石なものになっていったようだ。 後一条(ごいちじょう)天皇の時代となった1017(寛仁元)年には右大臣。1021(治安元)年には太政大臣となった。 申し分ない地位を得ながらも、前述したように権力に対する欲があまりなかったとされる。その辺りが道長の側近を危なげなく務め続けられた一番の要因かもしれない。 1029(長元2)年10月17日に没した。享年73(『小記目録』)。公季の子孫たちは、公家の名門・閑院流として長く繁栄を誇った。
小野 雅彦