伊那谷楽園紀行(8)嫌々参加していた町の祭りが変わった理由
牧田が市役所で「伊那まつり」を担当する、商工観光課に配属された1990年代。 祭りは惨憺たる有り様になっていた。 「死んだような祭りになっていたんだ……」 踊りに参加する人の数は1万人を数えていた。でも、それは見かけ上の数字。企業や市内の各地区に動員をかけて集めた上での数である。大半の人々は喜んで祭りに参加しているわけではない。会社が協賛しているから。住んでいる地区の自治会に頼まれたから。半ば嫌々参加しているような祭りになっていた。参加する意味があるとすれば、踊った後の打ち上げだけ。だから、大抵の人は目抜き通りの会場で、アリバイ的に踊ると、すぐに姿を消した。踊りの時間は午後6時から9時まで。最後まで踊っていては、打ち上げの時間も遅くなってしまう。祭りの始まりから、30分、40分経つと次々と踊りの輪から人の姿が消えていった。 「7時になる頃には、もう誰もいなくなっている年もあった」 一部で「市民の祭りなのだから、テキヤもいらない」という意見が出て、それが通った年は、さらに惨憺たる有り様だった。祭りを盛り上げようと、模索する中で「阿波踊りの人を呼ぼう」という話になり徳島県から踊りの連を招いた年もある。 「連の人たちに<こんな寂しい祭りははじめてや>といわれた時のことは忘れられないですよ」 福島県の祭りでやっていたのを真似て、20メートルの大草鞋を担ぐ催しもやってみた。その一瞬は盛り上がったけれども、それを毎年やって盛り上がるとは、到底思えなかった。牧田をはじめ、あちこちに冷え込む祭りへの危機感を持つ者はいた。けれども、驚いたことにまったく危機感を持たぬ者もいたのだ。計画通りに実施されているのだから問題ない。企業の協賛も例年通りで人は集まっているのにを改善する必要があるのか……などなど。 「伊那まつりは、踊りの祭り。その踊りは『伊那節』と『勘太郎月夜唄』。たった2つの踊りに市民はまったく飽きていたんです」 そう、牧田は振り返る。それまでも、盛り下がる祭りを改善しようと提案をする者はいたけれど、いつも失敗に終わっていた。 そんな1995年。その年も、祭りに向けて準備が始まった。市役所の担当部署や商工会議所などが集う実行委員会。それに向けて、牧田たちは準備を進めていた。市内の自治会に頭を下げて、人を集めてもらい「伊那まつり」へのダメ出しを集めて回った。それも、10や20ではきかない数を。 「みんなが踊りに飽きているのだから、新しい踊りをつくらなきゃ、このままですよ!」