自転車に乗れないアラフィフが「超有能に見えて驚くほど無能」な女性に救われた理由
私、カッコつけたかっただけ?
最も大切なのは、「鷹野がものすごく堂々としている」こと。 できないのに「できます」と誤魔化すのではない。できないことを熟知しながら、鷹野は堂々としている。 そこに「どうせ私なんて」という思いが、一ミリもない。 「デキそうに見える自分」と「いろんなことができない自分」のギャップをものともしない。 鷹野と鶸田の姿にぶははと笑いながら、ハッとした。 つまり、自分は、できそうでできない=カッコ悪く見られるのが嫌だっただけじゃね? 威張る必要はないし理由もないけど、卑屈になる理由もないんじゃね? 筆者自身、どうやらやっぱり全般的に運動神経が悪いのだとはっきり認識したのは大学生になってから(遅!)だが、いろんなことができないので、コンプレックスの塊だった。できそうに見えてできないのが嫌でたまらなかった。 でも確かに、親しい人に自転車に乗れないことを公言してから、すごく楽になった。乗れないのは事実なので、家族や友人がサイクリングに行く時は歩くか、電車か、バスを使ったり、別行動したりすればいいだけだ。 誰でも得手不得手がある。もちろんあらゆる能力に長けている人もいて、それは素晴らしいことだが、たいていは才能だけではなくてかなりの努力をしている。 努力をしてもどうしても下手なことに対して落ち込むくらいなら、それをカバーできるくらいなにか楽しいことや、自分でもできることを見つければいい。それも、人と比較してではなくて、自分の中で得意であればいい。それでコソコソする必要なんてない。 そして意外と鷹野はできないことを正直に言って誤魔化そうとしないので、被害は大きくない。できないことを隠そうとするよりよっぽどいいのだ。 他人に迷惑かけるわけでもなし(それ以前にUber Eatsは筆者を雇ってはくれない)、自転車に乗れなくたっていい。鷹野ツメ子は、筆者にそれを教えてくれるのだ。 さわやかな青空の下で自転車に乗れる人生も、かなり楽しそうではあるけれど。 文/FRaUweb編集長 新町真弓
FRaU編集部