篠原ともえ “シノラー”から清楚へとイメチェンした理由
奇抜なファッションとハイテンションなキャラクター性を打ち出し、1990年代後半に“シノラー”ブームを巻き起こした篠原ともえ。35歳となった現在は、カラフルだった“シノラー”から一転、清楚な雰囲気を身にまとい、衣装デザイナー、女優、声優とマルチな才能を発揮中だ。WOWOWで放送する米・リアリティ番組『プロジェクト・ランウェイ オールスター2』の日本語吹き替え版声優を務めるなど、その活動は幅広い。一時期表舞台から姿を消した印象のある篠原だが、そこから数年の“潜伏期間中”に再ブレイクへの足掛かりを掴み、変わるべくして現在の姿へと成長を遂げた。 ■変わっていく篠原を楽しんでくれる人がいる かつての篠原を知っている人にとっては、現在の“清楚”にイメチェンしたキャラクターに意外性を感じたかもしれない。篠原自身も「今までは『明るくない篠原なんて、誰も受け入れてくれないのでは?』という不安があった」と、振り返る。それでも「歳を重ねるにつれ、変化してゆく“篠原ともえ”を楽しんでくださる方がいるという事がわかり、皆さんの求めに導かれるように、色々な“しのはら”を出していきたいと思った」と、“かつての篠原ともえ”から、“新しい篠原ともえ”を自ら創造している。 ■レギュラー番組終了後は幅を広げる活動にシフト 物おじしない言動とカラフルでオリジナルなファッションで、お茶の間の人気を集めていた1990年代後半。その独特なファッションセンスは、多くの女性からの支持を得て、篠原の名をもじった“シノラー”という言葉が生まれるなど、一世を風靡する。ところがレギュラー出演していた音楽バラエティ『LOVE LOVE 愛してる』(フジテレビ)の終了と共に、テレビ番組の露出は減っていった。 「それまではバラエティ番組を中心に活動していましたが、本当は歌手なのでもっとスキルを上げなくちゃと思い、シフトチェンジの期間として舞台のお仕事で歌を鍛えたり、自主企画のライヴで衣装をデザインして縫製したり。お茶の間では休んでいたと思われる方もいらっしゃいますが、だんだんとナレーションなど声にたずさわるお仕事や、NHKの“真面目”な番組ですとか、自分自身の変化を楽しめる挑戦が増えていったんです」と、自らの幅を広げるための選択の時期だったと説明する。 ■もう1つの夢 デザイナーを本格的に目指す 幼少期から“歌って踊れるデザイナー”を目指していただけに、デザイン系の専門学校にも通い、本格的に勉強に励んだ。「その時期はデザインの勉強だけじゃなく、映画館や美術館巡り、あとは舞台を観に行ったり。一週間の休みをいただいて語学留学もしました。色彩検定の受講や色についても学び、ゆっくりと着実にスキルを上げる修業をして、将来の夢に向けての下準備をしていました」と、積極的に行動していた。 その修業が大きく実を結んだのが2013年。篠原は、松任谷由実のコンサート衣装のデザイン担当として白羽の矢が立つ。「打ち合わせの時に『あの映画のこういうシーンのような感じ』と言われたときに、それがすべて理解できて、そこからアイディアを発展させる対応ができたんです。もし知識の栄養をチャージする時間を持っていなかったら、質問だらけで話にさえついていけなかったと思います」と、あえて時間をかけて学んだことによる成果を実感する。