桂由美 93歳「日本で初めてウェディングドレスのデザインを手掛けてから60年。絵本の白雪姫に憧れ、東京大空襲も乗り超えて」
◆地獄のようだった東京大空襲 やがて軍国主義の時代が始まり、お姫様やレースのドレスどころではなくなりました。私立の女子中学校(当時は高等女学校)に入学しましたが、戦争中は学徒動員で工場に通うように。東京も頻繁に空襲に見舞われるようになりました。 45年3月10日の東京大空襲で、下町は壊滅状態に。わが家はかろうじて空襲を免れましたが、近くの亀戸、錦糸町、両国あたりは一面火の海に。 当時2年生で級長をしていた私は、翌朝、田町にある動員先の沖電気の工場に行って同級生の被害状況を確かめなければ、という思いに駆られました。そこで親が止めるのも聞かず、駅へと向かい、線路の上を歩き始めたのです。 小岩から西に行くには、中川と荒川放水路の鉄橋を渡らなくてはいけません。枕木と枕木の隙間から下に落ちたら即死です。すると見知らぬおじさん2人が私を紐で結わえて前と後ろで持ってくれ、なんとか無事に川を渡りました。 平井でいったん線路から降りると、マネキン人形がたくさん転がっています。母が洋裁学校をやっていたので、マネキンは見慣れていました。ですから大きなマネキン工場が空襲に遭ったのかと思ってよく見たら、煙を吸って亡くなった人間の死体でした。 再び線路に戻って両国あたりに行くと、隅田川にたくさん死体が浮いています。あの地獄のような光景は今も忘れられません。
◆演劇からファッションに方向転換して 戦後は外国映画に魅了され、お芝居の世界に憧れを抱くようになりました。私は大学に通いながら、文学座の研究生に。指導してくださった芥川比呂志さんからは、大学卒業後に文学座に戻ってくるように言っていただきましたが、徐々に自分の適性は演劇よりデザインだと気づき、在学中に文化服装学院の夜学に通い始めました。 卒業後、母が経営していた洋裁学校の先生になりましたが、しばらくしてから母に、1年間パリに留学したいと懇願。日本ではまだヨーロッパ式の立体裁断が普及していなかったので、本場で学びたかったからです。当時、海外留学には相当お金がかかりましたが、「私の結婚資金として貯めていたお金を出してください」と頼みました。 パリでは高度なオートクチュール技術を学びましたが、その間、子どものころに絵本の中で見たお姫様のようなパリの花嫁の美しさに、心が震えました。 帰国してからは、学校で生徒たちに教える日々。当時は「花嫁修業」の一環として洋裁を学ぶ人が増え、学校は盛況だったのです。ただ、なかには単なる花嫁修業ではなく、洋裁で身を立てたいという生徒もいます。そういう生徒のため、2年間のカリキュラムを終えた後、さらに1年間、専門技術を学ぶクラスを設けました。 2年間でほぼすべての服の基本を教えるので、3年目はパーティドレスなどの正装をカリキュラムに。そして卒業制作として、ウェディングドレスを作ってもらうことにしました。 それでわかったのは、日本における生地やアクセサリーの貧困さです。当時はウェディングドレスの需要がほとんどなかったため、ろくなものがなかったのです。