「火事と喧嘩は江戸の花」といわれるが、江戸時代の人たちは本当に喧嘩っ早かったのか
「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉がある。江戸の二大名物のひとつが喧嘩。江戸っ子は気が早く喧嘩が多かったというのである。 【画像】「法を守る気ゼロ」…江戸時代の長崎の犯罪を誘発した都市環境 では長崎ではどうだったのだろうか。江戸時代の裁きの記録として現存する、長崎奉行所の「犯科帳」には、江戸時代の長崎の人たちの喧嘩ぶりが記録されている。 【本記事は、松尾晋一『江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む』より抜粋・編集したものです。】
悪口を言われていると思い込んで…
宝暦一一(1761)年五月一二日夜、北馬町の住人・伊八と文蔵が口論になった。 文蔵が伊八宅の前を通りがかった時、伊八が文蔵の親・半蔵の悪口を言ったと思い込んだのがことの発端だった。双方言い合いとなったが周りにいた者たちが両者を宥めて文蔵を帰らせた。この程度の喧嘩や軽い傷害事件はそれぞれの町の乙名(編集部注・町役人の職名)の判断で話を収めることができたのだ。 しかし言いがかりを付けられた伊八の気持ちは治まらなかった。 同一二日夜、伊八は文蔵が通りがかったところを後ろから割木で頭を殴った。どのくらいの割木を使用したのか不明だが、不意を突かれて頭に傷を負った文蔵は、同町の三次郎のところに逃げ込んだ。いっぽう伊八は同町の平次兵衛のところに向かった。 文蔵の家の近くに住んでいた親の半蔵は、このことを知ると木刀を持ち、本大工町に住む伯父の市左衛門を伴って文蔵とともに平次兵衛方に駆けつけた。そして、「伊八、外に出てこい」と叫んだ。仕返ししようとしたのである。 すると、伊八、平次兵衛に加えて茂八なる者も出てきて殴りあいとなった。近所の与七と伊三太も加わった。文蔵は包丁を持参しており、伊八に手傷を負わせている。災難だったのは、この夜、自身番に詰めていた伊三太である。騒動を収めようと駆けつけたが、市左衛門を抱き留めようとしたところをだれかに後ろから肩を突かれて倒れ込んでしまった。以後の状況は覚えていないというから、失神したのだろうと思われる。 この件では関係者八人が同月一六日、町預や入牢などになっている。どういう経緯で奉行所に事件が伝えられたのかは不明である。 伊八、半蔵は出牢の上、押込二〇日。文蔵は出牢の上、押込、過料三貫文を命じられた。市左衛門は押込一〇日。平次兵衛、茂八、与七の三人は、「急度叱」となった。 最後に失神した伊三太だが、騒動を鎮めようとして駆けつけ傷を負うほどの働きをしたことが褒められ、文蔵が差し出した過料三貫文を褒美としてもらっている(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(二)三〇八~三〇九頁)。 一度解決したように思えたが、当事者の収まりがつかず、地縁・血縁の関係で町内を巻き込んだ大喧嘩になってしまった。江戸っ子に負けず劣らず血の気の多い連中が長崎にも多くいたようである。
松尾 晋一(長崎県立大学教授)