旧統一教会問題の「適切な大きさ」を測る
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成瀬巳喜男監督で映画化もされた林芙美子『浮雲』の、高峰秀子演じるヒロインと絡む脇役「伊庭杉夫」のセリフである。映画では山形勲が、純粋に金儲けを目的に「大日向教」にはいり教団内で地歩を固めていく、人品は卑しいがとにかくしぶとくたくましいこの役柄を好演している。 映画の公開は1955年。原作となる小説は、1949年から1951年にかけて連載された。敗戦直後から顕著だった、雨後の筍のような宗教団体の叢生という事態がこの描写の背景にあるのは疑いない。実際、作中でも実在の新宗教団体・璽宇が引き合いに出されている。天皇の人間宣言に伴い天皇の神格が自らに移ったと主張する教祖「璽光尊」を中心に、双葉山や呉清源といった有名人を広告塔的信者として擁し、天変地異が起きるなどと不穏な風説を流布したこの教団が、警察からの再三の出頭命令を拒み検挙されたのは1947年の1月のことであった(璽光尊事件)。田園調布に「本殿」の建設を計画しているとされる羽振りの良い作中の「大日向教」には、璽宇をはじめとする今はとっくに忘れ去られてしまった有象無象の新興宗教団体の姿が重ね合わされているのであろう。 同じころ、やはり「戦争が終わってから新興宗教や各種の迷信が非常な勢で発達して来たやうに見えます」と述べていたのは社会学者・清水幾太郎であった。当時の世相を分析した『私の社会観』(1951年)で、清水がとりわけ注目していたのは「反社会的集団」である。「社会の実質」が「集団の交錯であり複合」である点は洋の東西を問わない。だが、清水の見るところ、西洋で発達した「近代的集団」は「誰でも自由に出入り出来る開放的な性格」を持つのに対し、日本の場合にはそれとは正反対の特徴を帯びがちになるのだという。
本文:6,140文字
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河野有理