「ラグビー日本代表史上初のベスト8」に貢献した藤井雄一郎監督の「まるで双六のような人生」
中学生で迎えた転機
人生が壮大な双六のようだ。 藤井雄一郎は2019年、ラグビー日本代表のセコンド役を担ってワールドカップ日本大会で史上初の8強入り。現在は国内リーグワンの静岡ブルーレヴズで監督をしている。何より、いまほど世に知られる前にはアルバイト生活、選手として所属するチームの活動停止を経験している。 【マンガ】外国人ドライバーが岡山県の道路で「日本やばい」と驚愕したワケ 「あっちへふらふら、こっちへふらふらや」 奈良県の中学生時代は悪さや喧嘩に明け暮れた。もともと入っていた剣道部を辞めさせられると、ひとつの転機を迎える。 水泳部の冬季トレーニングで、ラグビーにのめり込んだのだ。 天理高校という近隣の名門で本腰を入れると決めた。いざ門を叩けば当時のスパルタ指導、上下関係に疲れ何度か逃亡を企てたものの、卒業後に進んだ名城大学では競技そのものの面白さを再確認した。3年時にニュージーランドへ留学し、4年時には主将として自ら練習メニューを考えて過ごしたからだ。 卒業後は市場でアルバイトに励んだ。その時期に大学の仲間の結婚式へ出たら、数日後に「俺は呼ばれてないんだ」と電話してきた元チームメイトがいた。 その仲間は、熊本のニコニコ堂のラグビー部に在籍していた。 「ええやん、お前はラグビーができているんやし」と答えたら…。 「お前もできるぞ。言ってやろうか?監督に」 着信を切った次の日には務め先を辞め、部屋を解約した。洗濯機や冷蔵庫は後輩にあげ、家財道具を突っ込んだ軽トラックを転がした。大阪の港でフェリーに乗り入れた。 九州に上陸して現地で「監督」と会うや、「もう、帰るところないんで入れてください」。社会人のキャリアを始めたのは1992年だった。
監督としての鮮やかな手腕
さらに大きな分岐点は、その約6年後にあった。後にNECグリーンロケッツ東葛のプロラグビー選手になる長男の達哉が生まれた1998年3月17日、翌年度限りでのチーム廃部が発表されたのだ。 まもなく、対戦したことのある福岡のサニックスにスカウトされた。移籍先では「俺たちが手を抜いても九州電力は手を抜いてくれへん」とライバルの名を出し、混在していた社員選手とプロ選手の分断を修復。一体感を作った。2001年度までフィールドに立った。 続く05年に指揮官になると、驚くべきコストパフォーマンスの高さを発揮する。 限られた戦力をやりくりして、スリリングな展開ラグビーを披露したのだ。 当時あった国内トップリーグにあって多くのチームが夏に北海道キャンプを実施するなか、あえて猛暑の九州で走り込み。突進役は一部の外国人選手に任せ、周辺には技術と速さと運動量のある黒子役を並べた。 老舗クラブから胸のすく白星を奪うなど異彩を放った末、2018年度に退任した。その前後から託されたのが、日本代表と、そのきょうだいチームのサンウルブズの裏方業務だった。 2016年に就任したジェイミー・ジョセフヘッドコーチは、藤井がいた時代のサニックスでプレーしたことがある。その時からジョセフとうまが合った藤井は、強化副委員長、強化委員長、ナショナルチームディレクターと、その時々の肩書で選手、首脳陣、スタッフ間のつなぎ役を担った。 具体的な業務はメンバー発表時などの取材対応、遠征先での部屋割り、その他もろもろのやり取りだ。 チーム内に信頼関係ができる前は、選手と食事をして本音を聞いたり、ジョセフがその人のことを言葉以上に評価していることを評価したりもした。ジョセフに外国人を雇用する日本人経営者を紹介し、多国籍軍を束ねる秘訣を学ばせたのも藤井だった。