サンプラザ中野くんの歌唱スタイルはどのように生まれたのか
アーティストの音楽遍歴を紐解くことで、音楽を探求することの面白さや、アーティストの新たな魅力を浮き彫りにするこの企画。今回はデビュー40周年を迎えて再集結した爆風スランプのボーカリスト・サンプラザ中野くんの音楽遍歴に迫った。 【写真】1981年頃、“ミミズ”の姿で歌うサンプラザ中野くん。 取材・文 / 大山卓也 ■ 幼少期の原点は「帰って来たヨッパライ」 2歳から3歳になる頃に小児麻痺を患いまして、右半身の発達が少し遅かったんです。でも頭のほうはそれなりに回転していたらしく、近所のおばさんに抱っこされて「あら、この子はまるまる太って」と言われたときに「お前のほうが太ってる!」と言ったという逸話があります(笑)。それがたぶん4歳とかですね。口から生まれてきたんじゃないかと言われてました。 音楽は小学校のときに「帰って来たヨッパライ」というザ・フォーク・クルセダーズの曲に衝撃を受けまして、母親に頼み込んでレコードを買ってきてもらいました。その体験がたぶんいまだに自分の音楽人生の下敷きになってます。当時はわからなかったけど、あれを作っていたのは北山修さんや加藤和彦さんで、その後の日本のフォークロックシーンを牽引していく人たちですから。小学生の俺は見る目がありましたよね(笑)。 小学校のときに鼓笛隊でトランペット吹いてたことがあったんで、中学ではブラスバンド部に入りました。「君は下唇が厚いからトロンボーンね」と言われて「わかりました」って。その頃はテレビが大好きで、テレビから流れてくる歌謡曲とかアニメソングを聴いてましたね。中1のときに自分で初めて買ったレコードは天地真理さん。あと自分でもいろんな曲を、歌謡曲だけじゃなく学校で習う唱歌とか、親戚の集まりなんかがあるとよく歌ってました。ほら、大人たちがお酒飲んで盛り上がると子供呼んできて「なんかやれ」みたいなのあるじゃないですか。従兄弟たちは嫌がってたけど俺は進んで歌うタイプだったんで。昔から人前で歌うのは好きだったみたいです。 ■ 中学でアサノくん、高校で河合さんと出会う 中学2年で転校したら、そこで出会ったアサノくんっていう男の子が「これ貸してやるから聴けよ」と言ってかぐや姫のレコードを貸してくれたんです。聴いてみたらすごくよくて、そこからはアサノくんが薦めてくれる曲をどんどん聴くようになりました。その頃ラジオも買ってもらって、あのねのね、吉田拓郎さん、井上陽水さん、泉谷しげるさんなんかも好きでしたね。 そのうち自分でもやりたくなって、中3のとき親に5000円もらってギターを買いに行きました。でも千葉県・柏の中村屋っていう楽器屋に行くはずだったのが、その手前の店で高そうなギターがすごく安く売ってるのを見つけてしまって。まあ質屋だったんですけどね(笑)、子供だしそんなことわかんないから「これすごくお得じゃん」と思って買っちゃったんです、ネックが反ったギター。ずっと「指痛え」と言いながら、そういうもんかなと思って弾いてました。2年後くらいに先輩に見てもらってネックが反ってたことを知りました。 高校に入ってからはコンサートにも行くようになって、中野サンプラザにチューリップを観に行ったり、武道館のかぐや姫再結成コンサートに行ったり、カルメン・マキ&OZを日比谷野音で観たりしました。RCサクセションを初めて観たのもそのときの野音ですね。カルメン・マキさんが「私が今イチオシのボーカリストを連れてきたからみんな聴いてあげて」と紹介して、前座の最後に出てきたんです。ロックバンド編成に変わった直後くらいだったのかな。そのときは正直あんまりよくわからなかったけど、その後一橋大学の学園祭でP-MODELとRCサクセションの対バンライブを観て、そのカッコよさに驚きましたね。 高校では陸上部に入ったけど結局1カ月で辞めまして、それから美術部に入りました。美術部には(パッパラー)河合さんもいたけど一緒に音楽やろうみたいなことは特になく、たいして絵も描かずに2人で遊んでましたね。その後2人とも浪人しまして、大晦日の夜には柏駅で河合さんと待ち合わせて「New Year Rock Festival」に行きました。俺は一所懸命勉強してたんで息抜きということで。河合さんはまったく勉強してなかったと思いますけどね。それで明け方近く、河合さんとはぐれちゃって俺1人でダウン・タウン・ブギウギ・バンドを観てたら宇崎竜童さんが「ロビーでは酔っ払って寝ちゃってるやつらがいるけど俺たちは盛り上がっていこうぜ!」みたいなことを言ってて、それでライブが終わってロビーに出たら河合さんがゲロまみれでボロボロになって寝てたんですよ(笑)。「おいおい!」と思いながらなんとか柏まで連れて帰って、俺は普通に家族に新年の挨拶とかしてたんですけど、河合さんは家の玄関でお父さんが待ってて「お父さんは情けないよ!」ってグーパンチが飛んだらしいです。 ■ 人生の転機となったスーパースランプ加入 その後、私も河合さんもそれぞれ大学に受かりまして、そしたら河合さんが「スーパースランプってバンドに入ったよ」と言うんです。じゃあってことでライブを観に行ったら、それがもう最高のバンドだったんですよ。全曲オリジナルで変な歌ばかり歌ってて、しかもメンバーみんな虫の格好だった(笑)。キーボードの女の子は背中に羽根を背負ってアゲハ蝶、背の高いギタリストの先輩は全身シマシマでミミズ、河合さんは緑色のモコモコスウェット着てイモムシ。俺は本気で「なんて最高なバンドなんだ!」と感動してしまって。「帰って来たヨッパライ」を聴いたときにも似た衝撃を受けましたね。 それで次の日の朝、電車に乗ったらそのバンドのリーダーの人がいたんです。同じ大学だったんですよ。それで「昨日のライブ最高でした」って話しかけたら「おお、観に来てくれてありがとう。ところで中野くんは歌がうまいって河合に聞いたよ。うちのバンドに入らないか?」と言われて「いいんですか? 入ります!」と即答しました。なんでも昨日のライブを最後にほとんどのメンバーが辞めてバンドを新しく作り直すタイミングだったんですって。俺は「歌の才能が認められた」と喜んでたんですけど、実はバンド内で「ミミズが似合うボーカリストが欲しいね」って話になって、俺が痩せてて背が高かったんで河合が「じゃあ中野どうですか」と言ったらしい(笑)。歌がどうのこうのじゃなくてミミズが似合うボーカリストとしてスカウトされたんです。 スーパースランプに加入したのが1980年、私が大学に入ったばかりの春で、その3カ月後にはEastWest(イーストウェスト)っていうヤマハ主催のコンテストに出て中野サンプラザのステージに立ってました。スーパースランプは今では伝説のバンドみたいに言われることもあるんですけど、当時はアルバイトも忙しいし練習も週に1回2時間だけ。その後はジョナサンに行って朝までコーヒー飲んで帰る。3カ月に1回ぐらい地元のライブハウスで友達呼んでライブする。普段の活動はそれぐらいの感じでしたね。 その後マツダカレッジサウンドフェスティバルというコンテストがありまして、それに出て優勝すると車1台と100万円もらえるっていうんで「策を練ろう!」「ボーカルが頭を剃るのはどうだ?」「いいよ!」と話して、そのときからスキンヘッドになりました。その後1981年に再びEastWestに出たとき準優勝に選ばれまして。そしたらそのステージをヤマハの会長がたまたま観てて……いや、たまたまってことはないか(笑)。自分の会社が主催だから観てたんでしょうけど、その会長が「あのバンドを世界歌謡祭(ヤマハが主催していた音楽イベント)に呼べ」と言ったらしく、そのおかげで1981年の秋には日本武道館でも演奏させてもらいました。そのとき歌ってたのは「尻の穴から出たい」って曲。そんなバンドを呼ぶヤマハの会長、すごいですよね(笑)。 ■ 爆風スランプ結成「怒られないように歌わなきゃ」 そんな感じで当時“コンテスト荒らし”なんて呼ばれて、俺たち絶対プロになれると思ってたんです。でも世界歌謡祭ではなんの賞ももらえずに落選し、それでガクッとなってまた地道にライブハウスでの活動を始めました。で、その頃EastWestで優勝した爆風銃(バップガン)というバンドがいたんですけど、彼らもどこからも声がかからずプロになれずにいたんですよね。それで業を煮やした爆風銃のドラムのファンキー末吉が我々スーパースランプが出ていたライブハウス・渋谷屋根裏にやってきて、河合を呼んでなんか話してた。河合に「なんの話してたの?」って聞いたら「一緒にバンドやろうって誘われた」と言うんで「え? 俺も入れて!」って。このままスーパースランプやっててもにっちもさっちもいかねえなと思ってたんで、変化が欲しかったんですよね。それで爆風銃のベースの江川ほーじんも誘って4人でやろうってことになりました。これが爆風スランプの始まりです。そもそも末吉はなんで河合をスカウトしたのか、あとから聞いてみたら「とにかく河合はおかしいし、こんな狂ったやつとやれば何かが起こると思ったから」って言ってました。 爆風銃はファンクバンドだったけど、俺はファンクもハードロックも聴いてなかったんですよね。そういうのはだいたい洋楽だし、歌詞は英語じゃないですか。俺は子供の頃から言葉が好きだったみたいで日本語の歌にしか興味がなかった。洋楽はテレビで流れてるのをちょっと聴いてたくらいです。あと高校のとき文通してた女の子の手紙に「Queenって素敵よね」って書いてあったので「素敵だよね」って返事を送りました。そのあと友達に「Queenって何?」って聞いてたんですけど(笑)、でもフレディ・マーキュリーは大好きです。フレディ最高! おかしいですよね。たぶん「帰って来たヨッパライ」や虫の衣装が好きなのと同じ感覚なんだと思います。 そんな経緯で爆風スランプを結成してスタジオに入ってみたら、あいつらとにかく音がドカドカでかいんですよ(笑)。俺も負けないように、怒られないように大きな声で歌わなきゃと思って今の歌唱法が生まれました。スーパースランプ時代は頭の中で考えて、ある意味技巧で歌ってたんですけど、爆風スランプは後ろから煽られてるもんで限界を超えて一所懸命歌いまくるしかなくて、それがよかったのかな、爆風スランプは初ライブのときからものすごくウケてました。すぐに人気が出てライブハウスの動員も増えてきて、でもレコード会社から声がかかったのはけっこう経ってからでしたね。しかもそれでやっとプロになれると思ったのに1年経っても全然レコードを出そうって話にならない。「なんなんだよ」って文句言ってたら「あのね、君たちちょっと勘違いしてる。確かにライブはウケてるけどレコードっていうのは何十回も何百回も聴くわけ。君たち何百回もこの歌聴きたい?」「そう言われてみると……そうですね」って(笑)。「今回しょうがないからレコード作るけど、A面は作家が書いた曲を入れる。その代わりB面は君たちの曲を入れていいから」ってことで、ようやく1stアルバムの「よい」(1984年)を作り始めることになりました。 ■ 歌詞に必要なのはユーモアと社会風刺 俺は作家が作った曲を歌うのは別に抵抗なかったんです。でも曲に付いてた歌詞が気に入らなくて「こんなダサい歌詞は歌えません!」ってそのとき初めてキレました(笑)。それでディレクターに「じゃあ歌詞書いてこいよ」と言われて書いたのが(デビューシングルの)「週刊東京『少女A』」。それを見せたら「面白いじゃん」と言われて、そこからバンドの作詞担当になりました。 爆風スランプは96%ぐらい曲先で、各々が書いてきた曲に「じゃあ中野が詞をつけてね」っていう流れで作ってます。ただし「この曲最高だな」と思いながら詞を書いたことは1回もない。歌詞がない状態だとその曲のよさが把握できないんですよね。歌詞を書いてるうちにだんだん「いい曲だな!」と思い始めるんです。 作詞に関して誰から影響を受けたか? やっぱり忌野清志郎さん、松本隆さん、中島みゆきさん、あとはそれこそ阿久悠さん、銀色夏生さんとかですかね。P-MODELの歌詞も衝撃でした。「美術館で会った人だろ」を聴いて「こんな歌詞があるんだ?」と思って。ちなみに去年聴いた中で一番いい歌詞だなって思ったのは「可愛くてごめん」。誰が歌ってるのかもよく知らないんですけど(笑)。 そんな感じなんで俺は音楽性へのこだわりはないんです。ミュージシャンって呼ばれるのも違和感があるぐらい。だけど言葉に関してだけは昔からずっと考えてますね。このメロディにこんな言葉を乗せると流れがぶっ壊れて面白いなとか。例えば最近シティポップが世界で再発見されて流行ってるのとか、いいことだとは思うけど、歌詞を読んでみても何を歌ってるのか全然わからなくて、「誰の目線で書いてるの?」「ちょっと待って、これどういうシチュエーション?」って、そういうことが気になっちゃうんですよね。とにかくフックの効いてる日本語の歌ばっかり好んで聴いてきたんで、そこは勘が効くみたいです。自分が歌詞を書くときにはユーモアと社会風刺は絶対に必要だと思って書いてます。あと、愛と平和、ですね(笑)。それがなくて何の意味があるんだ、何も歌ってないのと同じじゃんと思うんですよね。 ■ サンプラザ中野くん(サンプラザナカノクン) 1960年8月15日生まれ。1984年に爆風スランプのボーカルとしてデビュー。1988年発売のシングル「Runner」で幅広いファンを獲得し、その後も数々のヒットを記録する。1999年に爆風スランプが活動を休止してからはソロアーティストとしてだけでなく執筆、アニメクリエイターなど幅広い活動をスタート。2007年7月に初のソロアルバム「3rd LOVE/The Best Ballads」をリリースした。爆風スランプはデビュー40周年を迎えた2024年に再集結。デビュー記念日の8月26日に、実に26年ぶりの新曲「IKIGAI」をリリースした。10月23日には爆風スランプ史上初、全曲メンバーセレクトのベストアルバム「40th Anniversary BEST IKIGAI 2024」が発売される。 ■ 公演情報 □ 爆風スランプ~IKIGAI~デビュー40周年日中友好LIVE“あなたの”IKIGAIナンデスカ? 2024年10月31日(木)愛知県 ElectricLadyLand 2024年11月1日(金)愛知県 ElectricLadyLand 2024年11月4日(月・振休)兵庫県 兵庫県立芸術文化センター 2024年11月17日(日)東京都 LINE CUBE SHIBUYA(渋谷公会堂)