「もう一回、自分たちのグラウンドで練習したい」能登半島地震で被害 輪島高野球部の「終わらない夏」
しかしながら、淡い期待は明朝に吹き飛ぶことになる。TV中継を見ると、自分の知っている故郷とは違う姿が映し出されていた。冨水が真っ先に行ったのが、当時28人いた輪島の野球部員たちの安否確認だった。 「1月2日に映像を見たとき、これはダメだと思いました。すぐに部員たちに連絡して、『生きてるか!? 今どうしてる?』と。でも、どうしても2人だけ連絡がつかなかったんです」 中川ら2人の部員が住んでいた集落は、建造物や道路の倒壊が激しく、孤立した。携帯電話の電波も遮断されていたのだが、大手携帯キャリアが船で緊急用の海上電波を飛ばしたことで、ようやく電波が届いた。全部員と連絡がついたときには、1月6日を迎えていた。 在学中だった前3年生たちを含めて全員の無事が確認できて、胸をなでおろした。冨水自身も被災直後から自宅に帰れていない状況で、安全を確保し、「これからどう生きていくか」を考えるのが精いっぱい。そんな冨水の思考に野球を取り戻させたのは、他でもない自分の教え子だった。冨水が親戚に物資を届けようと、輪島市内の避難所に向かったときのことだ。 「先生! いつから野球やりますか?」 はっとさせられた。冨水が記憶を思い起こす。 「『先生、大丈夫だったんですか?』とか『元気ですか?』が普通だと思うんです。元々、4日から練習を再開するよ、と選手たちに伝えていて、親戚と同じように避難所となった病院の駐車場に身を寄せていた坂口(晃清)という部員はずっと、1月4日から野球をすることしか考えてなかった。それで、『駐車場なんで、キャッチボールもできないんです!』とか言ってたんです。もう、それにすげえ感動してしまって……」 ただ、野球をやるにも障壁は無数にあった。まずは場所である。 輪島野球部は、’10年に統合した旧・輪島実の野球部グラウンドをメインに活動している。輪島の校舎からは少し距離があり、選手たちは自転車で向かうのが常だったが、地震によって、グラウンドに続く道が崩落。道がガレキでふさがれ、グラウンドに立ち入れなくなった。 ライト後方や球場の外野にも、形容しようのないくらい深い亀裂が入り、一部は地滑りするように崩れ去っている。地域の小・中学生たちが使うだけでなく、輪島野球部もナイター練習で活用するなど、地場の野球を支える存在だった。 「自分たちのグラウンドもですが、輪島市の子どもたちが野球をやる場所がなくなってしまっているのが、大きな課題ですね」