日本の哲学者にはこの不条理な世界がどう映っていたのか…生き方が変わる「最強のヒント」
「昼の見方」とは何か
しかし、そのような仕方で外部の世界と内部の世界を対置するのはおかしいのではないか、という考えが西田にはあったと考えられる。西田が『善の研究』改版の序のなかで、「色もなく音もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありの儘が真である昼の見方に耽った」というグスタフ・フェヒナーのことばを引用したことも、そのことを示している。 「色もなく音もなき自然科学的な夜の見方」というのは外部の客観的な世界と内部の主観的で派生的な世界とを対置し、前者こそが真実の世界であるとする立場に浮かび上がってくる光景である。それに対して「ありの儘が真である昼の見方」というのは、「純粋経験」の立場に映る風光を指す。 たとえば美しい花を見たとき、私たちはそれを単なる原子の集まりとして「純物体」的に見ているのではなく、──西田の表現で言うと──「生々たる色と形とを具えた」ものとして見ている。それは単なる知覚の対象ではなく、私たちに潤いややすらぎを与えるものである。そういう観点から西田は、物は知だけではなく、「情意より成り立った者」(八二)であると言う。見たり聞いたりする行為は感情や意志とも深く関わっているのである。そのように知と情と意が一体になった経験のなかにおいてこそ物がリアリティをもって現前しているというのが西田の理解であった。「ありの儘が真である昼の見方」ということばはそのことを指している。 この「昼の見方」のなかでは、言いかえれば経験の現場においては、主観と客観というような区別も、対置もない、ただ実在の現前があるのみであると西田は考えたと言えるであろう。この「実在の現前」こそ、純粋経験にほかならない。 さらに連載記事〈日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。
藤田 正勝