「賞金稼ぎ」と呼ばれたコシノジュンコ~亡き親友・高田賢三への思い~
原宿「キラー通り」の名付け親で、1960年代からファッション界をリードしてきたファッションデザイナーのコシノジュンコさん。かつて“サイケの女王”とも称され、当時の写真を見ると、いまの若者たちも“カッコいい”と感嘆するほどの先鋭的な美の感性の持ち主だ。高田賢三(KENZO)、金子功(ピンクハウス)、松田光弘(ニコル)とともに文化服装学院「花の9期生」と呼ばれ、最年少の19歳で装苑賞を受賞、パリコレでジャポニズムを開花させ喝采を浴びた。なかでも彼女の“無二の親友”だったのが、今年10月4日、新型コロナに感染しパリで亡くなった高田賢三さん(享年81)。コシノジュンコさんに、そんな彼との思い出や、ファッション界の未来、そしていつまでも若々しく輝きつづける「人生の秘訣」を聞いた。(中村竜太郎/Yahoo!ニュース Voice編集部)
ライバル 高田賢三と“賞金稼ぎ”
――高田賢三さんが今年10月、新型コロナに感染しお亡くなりになりました。賢三さんと最後に会ったのは? コシノジュンコさん: 私がパリを訪れた今年2月。いつものように一緒にご飯を食べて、彼が手がけていたインテリアのショールームを見せてもらいました。すでにパリではコロナ感染が拡大して、帰国後、電話で「コロナに気をつけて」と言ったら、「気をつける」と言っていたのに…。病院に入ったあと調子がよくなったと聞いていたのですが、亡くなる4日前に急変したようです。訃報を受け、普通ならば飛んで行くところを、行けない。残念ですし、もう会えないのかと思うと本当にさみしいですね。
――コシノさんは文化服装学院時代からの仲ですね。 コシノジュンコさん: 文化服装学院時代の19歳から亡くなるまでずっと交流があり、かけがえのない親友でした。同期には金子功さんや松田光弘さん、「花の9期生」と呼ばれていましたが、私は岸和田出身、賢三さんは姫路出身。同じ関西で、特に仲が良かった。同期といってもライバルですから、切磋琢磨しお互い励まし合いながら、ともに同じ道を歩んできました。当時、私と賢三さんは競い合っていろんなファッションデザインの賞に応募して、受賞するとお金がもらえるのですが、だから私たちけっこうお金持っていたんです。まわりからは“賞金稼ぎ”と言われていましたね(笑)。賞金を使ってヨーロッパに旅行したり、ブティックの開業資金にあてました。 私は、最年少で装苑賞を受賞して、彼も発奮して次の装苑賞を受賞。そのあとすぐに彼はパリに飛び立ち、すぐにパリにブティックを開き、コレクションでも大成功。私は青山で自分のブティックを持っていたんですけど、彼の成功に刺激を受けまして、負けられないというか、1回パリで勝負したいと思ったんです。