「賞金稼ぎ」と呼ばれたコシノジュンコ~亡き親友・高田賢三への思い~
――同期の活躍に触発されたんですね。 コシノジュンコさん: 賢三さんは日本的な魅力がすごく受けて、「世界のKENZO」と称されるほど。私は自分のパリコレに悩んだすえ気づいたのは、賢三さんとの勝負ではなくて、日本の美を追求し、自分らしさを表現することでした。以来ずっと賢三さんは私の中にいて、彼の存在が励みでした。普段パリで一緒にいるときは旅行や建築、アートの話題に花を咲かせ、昔、私がロンドンやニューヨークの最新モードを教えると「パリにはそんなのない。いいなあ」とうらやましがったり。また、ミック・ジャガーやデヴィッド・ボウイと夜遊びしたり、本当に楽しかったです。賢三さんは性格がおっとりしていて、どんなときも態度が変わらない、誰からも愛される人でした。彼が所有するサントロペのヴィラはフランソワーズ・サガンが所有していた物件。サンジェルマンのアパルトマンも美術館のようで素敵でした。そこで一緒に過ごした思い出。夢のような日々でした。 ――そんな高田賢三さんも1993年にLVMHにブランドを売却されたことがあり、挫折を味わいました。 コシノジュンコさん: 自分が育てたブランドが他人の手に渡るのは、想像を絶する試練ですよね。それを聞いた時はすごくさみしかったんですけど、彼が亡くなってもブランドは生きていることを考えると、いまとなってはよかったと思います。
苦しむファッション業界とこれから
――コロナ禍は高田賢三さんのみならず、ファッション界全体に影を落としています。 コシノジュンコさん: コロナ禍で残る人、残らない人がはっきりしましたね。日本ではデパートの売上減少が大きくて、そこに販売委託しているブランドもしかりです。若い人がデパートではなく、ネットで購入するように変わったことも大きい。ユニクロなどの大手が世界進出する一方で、それ以外は苦戦している状況ですが、ここは考えようだと思います。各ブランドはマーケットを見据えて、いろんな方向性を探すことが大事で、やはりオリジナリティは大切です。情報だけでファッションを作るとみんなと一緒になってしまうし、おのずと価格勝負になります。右ならえ、でなくて、左もあるよという発想で、独自の生き方を見つけるべきだと思います。 ――それを何十年も貫いてきたコシノさんですが、どんな苦労がありましたか。 コシノジュンコさん: さっきの賢三さんの話に通じるんですけど、私はデザイナーですから、経営には疎い面があって、その点が苦労しました。さいわい夫と息子が経営を担ってくれていますから、デザインに専念できますが、両方バランスよくできるという人はめったにいません。イヴ・サンローランの成功の影にピエール・ベルジェがいたように、美や芸術を理解するビジネスマンのサポートが今後いっそう必要とされます。美術大学の講演会でいつも語るのですが、いまは芸術経営学部を併設しなければならない時代で、それが芸術ファッション分野の未来、若者の将来の助けになると思います。 それと日本の若者には、日本の美しさをきちんと学んで理解してほしいですね。海外に出たらわかりますけど、世界からもっともうらやましがられるのは日本の歴史と伝統です。フランス人もそうですけど、外国人は日本の美を非常に理解し愛している。それを日本人がもっと知らなくてはならないし、世界に発信できるすばらしい文化であることに誇りを持ちましょう。賢三さんや私が世界から称賛を浴びたのは、日本の伝統美をモチーフにしてテーマ性を明確に打ち出せたからです。