養老孟司「結核で亡くなる朝、父はなぜ文鳥を放したのか。3000体の死体を見て、人生は些細な違いの寄せ集めだと感じるように」
◆子どもの記憶 三菱商事に勤めていた父・養老文雄が、二児のいた10歳年上の小児科医である母、静江と結婚、鎌倉で新しい暮らしを始めたのは1936(昭和11)年で、翌年に私が生まれました。名前は「孟子」の「孟」を使って孟司です。 どうして虫好きになったのかって、よく聞かれますが、好きに理由はありません。ものごころがついたときには生き物好きでした。 両親が初めて鎌倉の由比ヶ浜の海岸に僕を連れていったとき、行方不明になり、大騒ぎになったと後年、聞かされました。さんざん捜すと、僕は滑川の河口近くに座り込み、カニが穴を掘っているのをじーっと静かに見ていたそうです。 最初の記憶は、日本が米ハワイの真珠湾を攻撃した日のラジオ放送を聞いたことのような気がしますが、これがはっきりしない。 1941年12月8日、「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」とラジオは伝えた。 子どもの記憶って、大きな事件があるとその前の記憶が消えちゃう。僕の場合、父が死んだときのことは、まるで映画のワンシーンのように一コマ一コマが脳裏に焼き付いていて、突然浮かんできたりしますが、それ以前の記憶は一生懸命考えても出てこない。
◆記憶の始まりは父の死 思い出に残る一つの風景は、結核の療養のため自宅で寝ていた父のベッド脇にあったガラガラです。どうして赤ちゃんの玩具があるのか不思議でじっと見つめていると、私の視線に気づいた父が、「これを鳴らすと、看護婦さんが来てくれるんだよ」と答えてくれました。 声を出しにくいからガラガラを使っているんだと聞いて、「ああ、そういうことか」と思ったから、よく覚えている。その頃から解釈できると納得するタチだったんでしょう。理屈っぽいから(笑)。 ガラガラはオモチャなのに、僕のものじゃないのはおかしいという思いがあったけれど、その気持ちを父にぶつけてよいものか、遠慮があったようにも思う。 どんな感情にもはじめがあるはず。喜怒哀楽みたいな本能的なものは別として遠慮とか気遣いとかは社会的感情でしょう。それを感じた最初の機会でした。 もう一つの光景は、とても天気がいい日で、日の当たる窓際のベッドから半分起き上がった父が、飼っていた文鳥を逃そうとしている姿です。じっと見ていると、「放してやるんだ」と言う。それが父の言葉では最後の記憶です。なぜ、文鳥を放すのか、4歳の私には不思議でならない。ガラガラとは逆で、納得できなかったから記憶にあるんでしょうね。 いつだったか、そのときのことを母親に確認すると、「あれは、おまえのお父さんの死んだ日の朝だった」そうです。母は「お父さんは自分の死期を悟ったのかもしれないね」と語っていました。
◆養老先生への質問 Q.大人になるって、どういうことですか。 A.どこまで自分の管理をできるか。それが子どもと大人の違いかな。欲望のまま突っ走るというのは若いんですよ。 それは悪いとは言えないんだよね。僕らの年になると今度は欲望が低下してきますから(笑)、どうしても抑えるほうが中心になってくる。 ただ、自分としては、ここで大人になったと思ったことはない。あえて言えば、八十越えて元気がなくなってからかなあ。まあ、この場合は、大人になったというより、老人になったということでしょうな。 ※本稿は、『なるようになる。――僕はこんなふうに生きてきた』(中央公論新社)の一部を再編集したものです
養老孟司
【関連記事】
- 養老孟司「〈知っている〉と〈わかる〉は違う。現代の私たちは自然から遠ざかり、身体的感覚を伴う〈わかる〉を忘れかけている」
- 養老孟司「〈耕さない〉農業から、50歳以上の生き方を学ぶ。無理をしない・自然にまかせる良さを教えてくれた『土を育てる』」
- 養老孟司 相手の呼吸も息遣いもわからないSNSやネットでは、深入りは禁物。本気で相手をしようと思えば、膨大なエネルギーをつぎ込むことになりかねない
- 養老孟司 私が飲み屋で見知らぬ人と会話をするなかで学んできたこととは?「人間を見抜く感覚」を磨いておけば、対人関係の面倒なトラブルは避けられる
- 養老孟司「それは誤解」と説明しても、相手は相手で「自分が正解」と思っているからたいてい無駄。誤解は放っておいて自然に消えるのを待つべし