グレッグ・アラキ『ドゥーム・ジェネレーション』『ノーウェア』が描いた、若者たちの生と性と怒り
『ドゥーム・ジェネレーション』が描いた、性的指向の柔軟さ
『ドゥーム・ジェネレーション』は、なんとも人を食ったような文言から幕を開ける。「グレッグ・アラキによる異性愛映画」。これまでクィアな人物を描いてきたのに? と誰もが思うことだろう。だがこの宣言はまったくの嘘というわけでもない。主人公たちは実際に、エイミーとジョーダンという男女のカップルだ。二人は刺々しいムードを身にまとってはいるが、基本的には仲睦まじい恋人同士である。 それが大きく変わるのは、危うい雰囲気の放浪者、グザヴィエが乱入してきてからだ。道端で彼を拾ったエイミーとジョーダンは、すさまじく暴力的な事件に関わってしまい、3人はあてどもない逃避行へと繰り出すことになる。 『ドゥーム・ジェネレーション』が『リビング・エンド』の延長線上にある映画なのは間違いない。破滅的なロードムービーなのも同じだし、『赤ちゃん教育』(1938年)などから影響を受けた、予測不可能なめまぐるしい展開を導入しているのも同様だ。だがゲイ男性のヒリつくような怒りを主軸においた『リビング・エンド』と比べると、今作において探求されているのはまた別の領域であることがわかる。 それは性的指向の流動性である。画面上ではほぼ異性間のセックスしか描かれないとはいえ、それと同じぐらいの比重を持って、グザヴィエとジョーダン、男性二人の性的な緊張もこの作品ではしっかり描かれる。ジョーダンはエイミーを愛しているが、同時にグザヴィエにも惹かれるようになり、それはエイミーにとっても同じだ。若い3人は自分たちがどのような存在かを定義せず、それぞれの欲望やアイデンティティを旅の中で自由に探っていく。 30年近く前に発表されたこの映画が、性的指向のもつ柔軟さをいきいきと捉え、ポリアモリー、パンセクシャル的な関係をさらりと描いているのは驚くべきことだ。アラキはロードムービーの定石を踏まえながら、登場人物たちの行動を大胆に逸脱させていくことで、彼独自の世界観をもった映画を作り上げたのである。 ただ『ドゥーム・ジェネレーション』は愛とユーモアに満ちた映画でもあるが、「破滅の世代」と題された通り、絶望的な死と暴力が世の中にはびこり閉塞する様を描いた映画でもある。それはエイズ禍を経たアラキの、アウトサイダーを迫害する世界に対する率直な怒りを反映したものに違いない。 けれど三人の愛が旅を経て強まっていく過程からは、閉塞する世界を乗り越えていく希望の存在も垣間見える。そしてアラキは次作『ノーウェア』において、その可能性をさらに追求していった。