グレッグ・アラキ『ドゥーム・ジェネレーション』『ノーウェア』が描いた、若者たちの生と性と怒り
時代へ反逆する「ニュークィアシネマ」。エイズ・アクティヴィズムの存在
グレッグ・アラキについて知るためには、まず彼が属する「ニュークィアシネマ」(以下NQC)という1990年代前半に起こったインディ映画界のムーブメントについておさえておく必要がある。これを提唱したのはアメリカの映画批評家、B・ルビー・リッチだ。リッチは1992年に『ヴィレッジ・ヴォイス』誌で様々な映画祭でクィアな作り手による先鋭的な作品が次々と発表されている状況に触れ、一連の作品を「新しいクィアな映画」と名付けた。 むろんその「新しさ」とは、単にクィアなテーマをもつことを指しているわけではない。映画における性的マイノリティの表象を追ったドキュメンタリー『セルロイド・クローゼット』(1995年)が示すように、映画がクィアな人物を直接的・間接的に描写することはこれまでにもあった。では90年代以前の映画と、NQCを区別するものとはなんなのだろう? それは簡単に言えば、時代へ反逆する姿勢ということになるだろう。映画研究者の菅野優香はNQCが登場した背後に、1980年代のエイズ禍、そしてエイズ・アクティヴィズムの存在があると指摘する。 1980年代に世界的に流行したエイズ。それに対する同性愛嫌悪的な偏見や政府の対応の遅れを受けて生まれたのが、患者の権利や対策の迅速化、正しい知識の啓蒙などを求める市民たちの運動、エイズ・アクティヴィズムである。その運動の範囲は多岐にわたり、芸術もまた例外ではなかった。メディアが流布する差別的なイメージにあらがい、アートによってそれを刷新しようとする動きが、どんどん活発化していった。 けれどそんな必死の運動も虚しく、90年代後半に画期的な治療法が確立されるまで、エイズの死者数は増加の一途を辿った。そんな変わらぬ現実に対する「絶望と怒り」に応答するように生まれたのが、NQCなのである。 NQCの作り手はクィアな人物をあからさまに映画の中心におき、実験的な語りや構成、演出などを積極的に取り入れながら、偏見にまみれた「クィア」のイメージを全力で拒否した。NQCは、複雑で人間臭いリアルなクィアの描写を、社会との衝突を恐れずに追求した。菅野はそれらの作品がもつ特徴を「ポジティヴで正しいLGBTのイメージ、語り、キャラクターに抵抗し、内容と形式において欲望を徹底的に肯定するような映画的実践」と端的に表現している。 グレッグ・アラキもまた、そんな状況に急き立てられるようにカメラを手に取った作家の一人だ。彼が90年代に発表した作品は、上述したNQCの特徴を多く備えている。だがアラキはその大きな流れに同調しつつも、彼ならではの独自の作風を構築することにも成功した。それがなんなのか、作品内容に即しながら解説していく。