グレッグ・アラキ『ドゥーム・ジェネレーション』『ノーウェア』が描いた、若者たちの生と性と怒り
NQCにおけるアラキ作品の特徴は? パンクロックやオルタナティブミュージックの影響
「グレッグ・アラキによる無責任な映画」。そんなタイトルカードが示されたかと思うと、次のシーンに映るのは血のように赤いスプレーで描かれた「世の中クソくらえ」のグラフィティ。アラキの1992年の映画『リビング・エンド』はそんな強烈なイメージで始まり、HIVに感染したゲイ男性二人の行くあてもない彷徨へとなだれ込む。 不治の病にかかり、もはや残された時間は多くはない。残酷な事実に二人は当惑し、恐怖し、自分たちを見捨てた世界に激怒する。アラキは彼らの暴力的で野放図な行動に寄り添い、「かわいそうな犠牲者」ではない、等身大の若者としての二人を生々しく描き出す。エイズ禍のアメリカに対する怒りを、まっすぐに描いた衝撃作だ。 ただここで指摘しておきたいのは、ここまで荒々しく直球で怒りを表明する作風は、NQCにおいては例外的なものだったということだ。 フェイクドキュメンタリーとフィクションを融合させたり、過去作品の無数のパスティーシュを混沌とした編集によってつなげたり、有名な史実に取材して虚構をそこへ忍ばせたり。NQC作品においては、暗喩や引用を散りばめ実験的な構成をとる、複雑な寓意が込められた作品が目立っていた。それは眼の前の現実や歴史をクィアな想像力によって読み替え、遅々として変わらぬ社会を効果的に批判するための戦略だったといえる。 それなのに、どうしてアラキはそこまで前のめりで攻撃的なトーンを選択したのだろう。その鍵は彼が青春時代を過ごした1980年代のカルチャー、特にパンクロックやオルタナティブミュージックにある。これこそが、アラキを他のNQC作家たちと区別するうえでの、最も重要なポイントだ。 1980年代にロサンゼルスで20代を過ごしたアラキ(1959年生まれ)。それはニューウェーブが人気を集め、全米各地のアンダーグラウンドなシーンでハードコアパンクが隆盛を誇った時代だった。アラキはそれにどっぷりと浸かり、その反逆精神やユニークな美学、DIYな姿勢に刺激を受けた。 主流の価値観に迎合せず、売れなくても自分が良いと思うことを追求する。資金がないなら、自作でなんとかする。行動を起こし、声をあげるのを恐れない。彼はそんなパンクスの哲学を、低予算をものともせずラディカルな映画をつくり続けることで実践した。アラキの映画作りはある意味で、クィアコアやライオットガールのようなマイノリティ主導のパンク運動に連なるものだったといえるかもしれない。 LAパンクのエッジの効いた精神性が、NQCと交差した場所から登場した作家。それがグレッグ・アラキだった。そして彼は『リビング・エンド』で映画界を揺さぶることに成功し、より大きな規模で新作を撮るチャンスを手に入れる。それが1995年に発表された記念碑的作品、『ドゥーム・ジェネレーション』だ。