自分は「自由な恋愛をしようと思った」…中山美穂さんが背負っていた「亡き親友の思い」
80年代アイドルブームの象徴だった
そういえば、1990年前後に騒がれた、田原俊彦との交際でもわりと堂々としていた印象がある。『週刊明星』で彼女の連載エッセイを担当した知り合いの編集者も、網浜直子経由で彼女の恋の進行を知ったという。『夏・体験物語』で共演して仲よくなった網浜に「最近、ちょっといい感じなんだ」などと話していたそうで、寡黙で人見知りな彼女も、うちとけた相手には素顔を見せるんだなと微笑ましく感じたものだ。 人の死は、親しかった人の生き方に影響を与える。彼女もエッセイ本に書いた通り、この出来事で肝が据わったのではないか。1986年の後半は、歌手としても女優としても「ゾーン」に入ったような状態となり、ヒットを連発。多忙ゆえ、仙道敦子とのダブル主演だった『セーラー服反逆同盟』(日本テレビ系)にだんだん出演できなくなり、仙道の単独主演ドラマみたいになってしまう珍事も起きた。 そのゾーン状態が1987年になっても続き、あの『ママはアイドル』(TBS系)にめぐりあうわけだ。最も旬なアイドルが、劇中でもアイドルを演じるというこのドラマは、80年代のアイドルブームを象徴する作品。愛称の「ミポリン」が彼女自身の愛称としても定着した。そして、中井美穂が「フジテレビのミポリン」と呼ばれたり、中山美保が「吉本新喜劇のミポリン」としてネタにするようになるわけだ。
永遠に忘れない
私事ながら、筆者の妹も「美穂」という名前で、結婚していた期間は漢字のフルネームが彼女と一文字違いだった。さらなる自分語りをすると『毎度おさわがせします』の初回放送から2日後に大学を除籍になり、プロの物書きとしての人生が始まったので、勝手に同期みたいな気分も抱いていたりする。 彼女の文章には得も言われぬ魅力的があった。寡黙で人見知りなぶん、そこに想いを託そうとしていたのだろう。生涯唯一の結婚相手に作家を選んだのも、書くことへの憧れがあったからかもしれない。 一方で、離婚をして息子とも離れたことで、孤独な印象がつき、取材時に抱いた、どこか翳りのある不器用なイメージが強化された感もある。長生きしてくれれば、彼女の文章にももっと出会えたと思うと、残念でならない。 亡くなり方もあまりに突然で、それゆえ、強く印象に残る別れとなった。その歌や演技に一度でも魅了された人は、彼女を永遠に忘れないだろう。 ………… 【もっと読む】「コロッケを片手に交際相手の家に向かったことも」…14歳で家族を支えた「中山美穂さん」の素朴な素顔
宝泉 薫(作家・芸能評論家)