昔の地図を比べてみたら…「品川区」の激変ぶりが半端じゃなかった!
幼い頃は田んぼだったのに、今や住宅が立ち並ぶ土地に激変……。こうした地形の変化は高度経済成長期に著しいが、実はそれ以上に変化した時代がある。「地図バカ」を自称する地図研究家が、地形図のおもしろさを説く。本稿は、今尾恵介『地図バカ 地図好きの地図好きによる地図好きのための本』(中公新書ラクレ)の一部を抜粋・編集したものです。 【この記事の画像を見る】 ● 雑木林や丘陵地が住宅地へ ザリガニやカエルはいずこ 長きにわたって地形図を集めていると、たとえば同じ地域の10年前の様子との変貌にしばしば驚かされる。 私は子供の頃、横浜市西郊のとりわけ人口が急増していたエリアに住んでいたこともあり、雑木林や丘陵地が次々とヒナ壇状の住宅地と化していくのは当たり前の光景だった。中学を卒業する時の1学年は14クラスに達しており、昨今の重要課題である人口減少など想像もつかないような別世界であった。 子供時代を過ごした家のすぐ近くに田んぼがあった。その脇を流れる小川でよくザリガニを捕ったが、畔道を一歩踏み出すたびに何匹ものアマガエルが跳んで水路へ逃げるのは日常風景で、たまに小さなサワガニや巨大な青大将などとも遭遇したものである。 思えば、生態系的には実に豊饒な一角であったが、ここも大人になって再訪した時には跡形もなく、高く盛り土した上にマンションが建っていた。あのザリガニたちはどこへ行ってしまったのだろう。 新旧の地形図でこの場所を比較すれば、田んぼの記号から黒い長方形の建物記号に変わっただけであるが、このような変化は全国各地で起きていたはずである。
● 1929年までに激変した品川区 農村風景に3路線がお目見え さて戦前の東京で、この高度成長期よりも激動した時期がある地域の存在を知ったのはだいぶ後になってからだが、日本初の国勢調査が行われた大正9(1920)年から昭和5(1930)年までの10年間で人口が15.5倍に増えた東京府荏原郡荏原町(旧平塚村。現東京都品川区)はその最たるものであった。 ちょうどこの2つの時代に近い新旧図を比べてみよう。大正8(1919)年の図では畑と田んぼの合間に集落が点在する農村風景だったのに対して、10年後の昭和4(1929)年の図には目黒蒲田電鉄(現・東急目黒線)と池上電気鉄道(現・東急池上線)、それに品鶴貨物線(東海道貨物線)と、大正末から昭和初めにかけて相次いで建設された線路が一挙にお目見えしている。 この間に起きた関東大震災で「郊外志向」が強まったこともあるが、それ以前に日本の急速な商工業の発展により東京への人口集中はすでに進んでおり、3路線の急な出現は偶然ではない。 両社の路線は競うようにこの界隈に駅を設け、利便性は一気に高まった。このため市街化のテンポはどこよりも急速だったのである。品鶴線の建設も、当時の旅客・貨物輸送量の大幅な伸びを反映したものだ。