昔の地図を比べてみたら…「品川区」の激変ぶりが半端じゃなかった!
震災時に国内外から集まった義捐金を元手に設立された同潤会は、最新のデザインによるモダンな住宅(集合住宅および戸建て)をこの荏原町にも建設した。下図の左端に「同潤會住宅」と記されているのは注目度の高さの表れだろう。旧図に広がっていた畑は、10年後の新図では細かい斜線で示された密集市街地へと転じ、「藪清水」という地名が記された細長い田んぼの谷は戸越銀座商店街へと華麗な変身を遂げた。 ● 地形図を比較する楽しさ 陸軍兵営は学校や公園に変化 新旧比較の面白さに開眼した私は、全国各地の都市部の明治、大正、昭和戦前期などの地形図を古書店で購入しては現在の地形図と比較して悦に入っていたわけだが、そこへおあつらえ向きの仕事が舞い込んだ。全国の130都市について伊能図と明治大正期、高度成長期、それに現代の各地形図とを比較する『日本200年地図』(河出書房新社)の監修と解説の執筆である。 平成30(2018)年の夏は全国の都市の新旧地形図を毎日ひたすら眺めては解説を執筆する日々となったが、これほど集中して地形図を凝視し続けたのは初めてかもしれない。細部に注目しながら調べていくほど次々に興味深い事象を掘り出すことができ、時が経つのを忘れるほどだった。
たとえば中心市街から少し離れた四角い小市街地が、もとは明治以降にできた遊廓であり、それが当時の都市に「不可欠なインフラ」であったこと、明治大正期の地形図には旧大名家の宅地が各所に残っていたことなどを知った。金沢の兼六園の近くには前田邸があり、高知の県庁に近い場所には「山内侯爵邸」があるといった具合だ。 明治に入って城跡に最も多く進出したのはおそらく陸軍の兵営だが、戦後はそこが学校や公園などに転じていく。また瀬戸内の、たとえば高松市の海沿いに目立った塩田は、戦後の製法変更で工業地帯などとなり、専売局の煙草工場は後に閉鎖され、その銘柄にちなむ「朝日町」という地名に名残をとどめるのみであったり。 都市の姿を時代順にたどって感じたのは、産業構造の変化などに伴う人の暮らしの変貌であった。都市は人口を増やしただけでなく、面的にどこまでも広がった。特に県庁所在地レベルの都市では、例外なく従来の田んぼが広く宅地化されている。もちろんクルマでの生活が大前提だ。かつての日本を支えた各地の紡績工場は、敷地ごと巨大なショッピングセンターと化した。 これから数十年後に作られる地形図は、果たしてどんな姿を見せてくれるのだろうか。
今尾恵介