江戸時代のおかね 金・銀・銭の3つの通貨はどうやって使い分けていた?
井原西鶴(さいかく)の『日本永代蔵』巻六に「見立てて養子が利発」というお話があります。 えびす様は商売の神様で、商家では年2回、恵比寿を祭り、盛大にお祝いをします。話に登場する商家は、江戸通り町中橋(現在の東京都中央区八重洲通)あたりの銭店(ぜにみせ)。日頃は始末第一の主人が、恵比寿講の祝儀として一両二分の鯛を買い、大勢の奉公人に振る舞いました。そこには最近、伊勢の山田から10年年季で雇った14歳になる丁稚(でっち)がいました。 「お江戸に奉公したので、こんなご馳走にありつけた」と喜ぶのが主人の目にとまります。そのわけをたずねられて丁稚が言うには、 「今日の鯛の焼物は、値段が一両二分で背切りが十一切れですから、一切れの価は銀七匁(もんめ)九分八厘。小判一両が銀五十八匁五分の相場として計算すると、まるで銀をかむようなものです。塩鯛や干鯛でも、もとは生なのですから、祝う気持ちは同じです。腹具合もいつもと同じです」と。その後、主人はこの利発な丁稚を養子として迎え、その結果二千八百両の銭店から両替屋へ、三万両の分限長者となりました。お話の後半は省略しますが、「銀をかむ」という表現と小判、銀という通貨そのものに注目してみましょう。
鯛の刺身、京で食べたら1000円のところ、江戸で食べたら?
西鶴は恵比寿講の時期にはすべての商人が魚を買いあさるので、鯛は尾から頭までで一尺二寸か三寸の中鯛でさえ、一枚の代金が一両二分に高騰しました。町人でありながら家庭料理に鯛を使うのは江戸に住む商人だからこそと述べています。富豪の多い京の室町では鯛一枚を二匁四、五分で買い取り、それを五つに分けて、杠秤(ちぎ)で量って受け取ったといいます。京なので二匁とは銀二匁。お話のなかで金貨一両が五十八匁五分と為替が出てくるので、江戸の一両二分(※四分=一両なので二分=0.5両)は1.5両つまり銀八十七匁七分五厘。同じような中鯛が、京と江戸では30倍以上の違いがあるということになります。鯛の刺身を京で食べると1000円が、江戸では3万円以上、丁稚が銀(おかね)を食べているようなものというのもわかります。それほど当時の江戸は豪勢であり、おかねが動いていた街だったのです。伊勢から丁稚として奉公に出るのも、分限長者(お金持ち)になるためにも、やはり江戸が一番だったのです。