掛布雅之が「阪神の暗黒時代」を振り返る。「92年の<亀新フィーバー>に自分が加わっていれば違う結果に導けたかもしれない」
2023年シーズン、阪神タイガースは1985年以来、実に38年ぶりの日本一に輝きました。「ミスタータイガース」の愛称でファンに愛され続ける掛布雅之さんは、ここまでの阪神の歩みをどのように振り返り、現在の球界をどう捉えているのでしょうか? その著書『虎と巨人』から一部を紹介します。 【写真】後楽園球場で本塁打を放つ。1978年撮影(写真提供:読売新聞社) * * * * * * * ◆日本一の2年後から始まった暗黒時代 阪神は1985年に日本一になったあと、本当なら黄金時代を築くべきでした。 当時の吉田義男(よしお)監督もそのつもりでした。「昭和50年代は広島の時代(リーグ優勝4度)だった。昭和60年代は阪神の時代をつくる」と言っていましたから。1985年は昭和60年です。私たちも60年代はタイガースの時代をつくる自信がありました。 暗黒時代への入り口は日本一翌年の1986年にありました。フロントも含めて慢心があったのかもしれません。 大きな補強もなくスタートしたシーズンは大きなアクシデントがありました。エースの池田親興(ちかふさ)が故障で4勝止まり。 何より、四番の私が4月20日に死球で左手首を骨折。復帰後も打撃のリズムを取り戻すことができませんでした。 バースは2年連続三冠王となる活躍を見せましたが、前年のようなクリーンアップの爆発力はなくなり、3位でシーズン終了。そして、そのバースも長男の病気が原因で翌年の87年に退団。日本一からわずか2年後の1987年に最下位に沈んでしまいました。 野球にケガはつきものですし、死球そのものには恨みはありません。でも、あの死球は私のその後の野球人生だけでなく、阪神の歴史にも影響を及ぼしたのです。
◆暗黒時代のあだ花の亀新フィーバー 1987年に最下位となった吉田監督が退任すると、村山実(みのる)監督が就任。しかし、88年に6位、89年も5位に終わり、2年で退陣。 90年から指揮をとった中村勝広(かつひろ)監督も2年連続最下位スタートと目も当てられない惨状が続きました。87年からの5年間で実に4度の最下位を経験したのです。 突如、躍進を見せたのが1992年のシーズンでした。真弓明信、岡田彰布、平田勝男(ひらたかつお)の85年の日本一メンバーから世代交代が進み、入団5年目の亀山努(かめやまつとむ)、3年目の新庄剛志(しんじょうつよし)が台頭。大方の予想を覆してシーズン最後まで優勝争いを演じ、「亀新フィーバー」が巻き起こりました。 結果はヤクルトの優勝で、阪神は巨人と並ぶ同率2位でした。この年は阪神の歴史的な転換期でもありました。甲子園球場のラッキーゾーンを撤去したのです。後に打者が育たない球場として、タイガースを苦しめることにもなりました。 あと1歩で優勝を逃した悔しさを晴らすべき93年は4位に終わると、ここからさらなる暗黒時代に突入します。 2003年に星野仙一監督のもとで優勝するまで、実に10年連続Bクラスに沈むのです。しかも98年から2001年までは4年連続最下位。まさに底なしの低迷でした。 この暗黒時代を外から見ていた私はOBの一人として責任を感じていました。後輩たちにうまくバトンをつなげなかったことです。 1988年に33歳の若さで引退しましたが、92年まで現役を続けていれば37歳です。故障さえなければ、年齢的には十分にやれていたはずです。 あの亀新フィーバーで沸いた92年のシーズンに自分が加わっていれば、違う結果に導けたかもしれません。いろんな経験を後輩たちに伝えることができたかもしれないと複雑な思いで見ていたのです。
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