「司葉子」や「香港のトップ女優」ともロマンスが噂され…永遠の二枚目「宝田明」さんが演技力の凄さに感嘆した「一番の女優」とは
司葉子は「本当にウブなお嬢さん」
当時、僕は彼女を誘って、夜は新宿のナイトクラブに連れて行ったり、チークダンスをしたり、遅くまで踊ったり飲んだりしていました。「美貌の都」は、工場で働く工員と女事務員のロマンスという映画でしたが、これで彼女とのコンビが決定的なものになった。 当時、「宝田は司と結婚するのか」と言われたものですが、お互いに良い道を、と。週刊誌がない時代でしたが、ロマンスを噂されたことは事実ですね。僕らは、そのくらい噂された方が映画の入りもいいと考えていたし、東宝もそう見てました。 しかし、実際の司さんは、本当にウブなお嬢さんでした。「花の慕情」(昭和33年)で、静岡でロケをやったときのこと。撮影隊より先に僕は旅館に帰って、一番風呂に入ろうとした。お風呂場に行ったら、浴衣がひとつあったので、誰か旅行客が入ってるんだなと思ってね。僕は素っ裸になってお風呂場に飛び込んだら、女の人が背中を洗っていて、それが葉子ちゃんだった。 その日の晩、スタッフ皆で食事をするときに、「あー、実はですねー」とその話を披露しようとしたら、彼女が「キャー、やめてー」と。部屋に戻ると、彼女と付き人ら女性軍が3、4人持ち構えていて、上から布団をかぶせられて、押さえつけられたことがありましたね。
御曹司と結婚した香港女優との仲
《宝田の恋愛映画は東南アジアでも人気があった。そこで東宝は、香港のトップ女優のユー・ミン(尤敏)を起用。「香港の夜」(昭和36年)、「香港の星」(37年)、「ホノルル・東京・香港」(38年)と1年に1本のペースで作品を発表。大ヒット作となった》 僕は北京語ができるから、彼女も1人で寂しいだろうと思って、夜は遊びに連れていきました。それで香港の雑誌なんかで、2人は結婚するだろうとか書かれた。そして4作目が決まって彼女が打ち合わせで来日したときに、食事をして帝国ホテルの部屋まで送った。そのときに、「あなたは私と結婚する意思はないのですか」と聞かれたのです。僕は、絶対にいい友達でいなければいけないと思っていた。 すると彼女は、「香港のパーティーで男性と知り合った。マカオの賭博場の総元締めの御曹司だ」という。それで僕は、「日本では玉の輿というんだから、絶対、結婚しろ」と勧めた。その後、香港に帰った彼女から、4作目には出ないと東宝に連絡が入ったんですよ。 僕は東宝の重役に呼び出されて、「宝田、お前がユー・ミンにちょっかい出したからだ」と散々しぼられた。彼女はその御曹司と結婚し、実業家夫人として8つのビルのオーナーになった。その後、香港で何度か会いましたが、平成8(1996)年に脳溢血で亡くなりました。