格差社会が生む犯罪を訴えた松本清張代表作『砂の器』は過去の物語なのか
小説家、松本清張(まつもとせいちょう、1909-1992)は、『或る「小倉日記」伝』(1953)で芥川賞を受賞し、『点と線』『ゼロの焦点』などがベストセラーとなり、社会派推理作家として地位を確立しました。推理小説のみならず、時代小説や政治や社会問題などに斬りこんだ作品も多く発表してきました。 いまでも毎年、テレビドラマなどに何度となくリメイクされ、その時代ごとに新しい色彩を帯びてよみがえる清張作品が高く評価されるのは、推理小説によくある巧みなトリックで謎解きするスタイルではなく、あくまでも人間を描いた作品だったからだと言われます。時代は変われど、人間の本質は変わらない。清張はこの世を去った後でも、さまざまことを私たちに語りかけ、警鐘を鳴らしてくれます。 連載の第1回は清張の代表作である『砂の器』から、いまを読み解きます。(解説:ノートルダム清心女子大学文学部・教授 綾目広治<あやめひろはる>)
清張の代表作『砂の器』とは
松本清張の推理小説では、犯人は憎まれるよりも、むしろ同情される場合の方が多い。読者は思うだろう、たしかに直接の犯人はその人物であるにしても、その人物を犯罪に向かわせた社会の方にむしろ問題があって、真の犯人とは社会なのではないだろうか、と。清張の推理小説が社会派ミステリーと呼ばれる所以(ゆえん)であるが、『砂の器』(1960年5月~61年4月)はそういう清張の代表的な社会派ミステリーである。『砂の器』は映画化やテレビドラマ化もされたこともあって、おそらく清張の小説の中では一番よく知られている小説であろう。原作は読んでいなくても、映画やテレビドラマでその梗概を知っているという人は多いと思われるが、次にごく簡単に内容を見てみよう。 ーー音楽界のホープとなっている作曲家の和賀英良(わがえいりょう)には、今は亡き父がハンセン病者であって、酷い差別を受けていた父とともに英良は、各地を流浪した過去があった。彼は、過去を隠して現在の成功を手にしていた。だが、彼の過去を知る人物が現われ、恐慌に陥った英良は、その人物を殺害する。その人物は実は過去に英良たち父子を助けてくれた善意の元巡査だった。和賀英良は、本名は本浦秀夫と言うのだが、戦争中に戸籍が空襲で焼失したのを言わば奇貨として名を変えて別人になっていたのである。ーー 和賀英良は「ヌーボー・グループ」という若手の前衛的な芸術家グループに属していたが、そのメンバーたちは立身出世主義を軽蔑している口吻を表ではもらしながら、いずれも本心では強烈な立身出世願望を持っていた。保守派政治家の娘と婚約している和賀英良にも栄達への強烈な野心があった。実は、和賀英良は恵まれない生い立ちの中から上昇してきた青年文化人であった。つまり彼は、成り上がってきたタイプの青年文化人だったのである。