秋篠宮さま「娘は一所懸命取り組んでいる」2024年、佳子さまの活躍とワンピースに込められた“決意”
秋篠宮さまの誕生日当日
《秋篠宮邸が建つ場所にかつてあった、表町御殿(旧秩父宮邸)の門や建物、庭園、池などの写真をご覧になり、殿下が建物や庭園などの移り変わりについて紹介されながら皆様でお話しになり、往時に思いをはせておられました。写真をご覧になった後、皆様でお庭にお出ましになり、池のほとりからかつて表町御殿が建っていた場所や、当時とほとんど変わらない池をご覧になりながら、お話しになっていました》 11月30日の秋篠宮さまの誕生日当日、発表された家族写真と一緒に、宮内庁皇嗣職の前述のような説明が綴られていた。秩父宮雍仁親王(1902―1953年)は、大正天皇と貞明皇后との間に生まれた。昭和天皇の1歳下の弟で、高松宮さまや三笠宮さまの兄となる。勢津子妃と結婚し、戦前、今の秋篠宮邸のある場所に表町御殿という豪壮なヨーロッパの城のような洋館、秩父宮邸が建てられ、そこに暮らしていた。 敗戦の年の1945年5月25日夜、この連載で以前、紹介したように米軍爆撃機のB29による空襲で三笠宮邸などと同じく秩父宮邸も焼失した。ラグビーやスキー、あるいは登山などの振興に尽力し、「スポーツの宮さま」「山の宮さま」として生前、国民に親しまれた。ラグビーの聖地と呼ばれる秩父宮ラグビー場は、秩父宮さまのこうした業績を偲んで名づけられた。 宮内庁の説明を読むと、秋篠宮邸の周囲には当時の遺構などがあるようだ。佳子さまや悠仁さまという若い皇族たちと一緒に、過ぎ去った昔に思いをはせ、秩父宮さまや勢津子さまの業績や人となりを、これを機会に勉強することになれば、それはとてもよいことだと思う。秩父宮さまの幼少時代のエピソードを紹介してみよう。ご自身の随筆『思い出の明治』の中の「少年時代の兄上(昭和天皇、筆者注)」から引用する。 《ねだらなくても珍しい玩具は次から次と降ってくるし、まわりの人々は僕の「ご機嫌」をそこなわないように面白く遊ばしてくれるのだから、このめぐまれた環境の日々には満足していたことだろう。もっとも、このころは友達とてはなく、比較すべき対象がなかったのだから、幸福とか不幸とか、あるいは自由とか束縛とかの観念は存在するはずがない。 しかし「お相手」と称する人々ができ、さらに小学校に通うようになって、同年輩の友達と自分とを比較する機会が多くなるにつけ、目に見えない何かの力に縛られている「宮様」の生活に対し、子供心にもなんとなく不満を感じ出したのも自然のことといわねばなるまい。あるとき、兄上とこんなことを話し合ったのであった。 兄「質素が好き、だけど身分があるから困るね」 僕「そうなの、不自由なんですもの。花屋敷(東京・浅草にある遊園地、筆者注)なんどへ行かれないんですもの」》 自由や不自由、それに束縛などという言葉が出てくる。皇族を取り巻く環境は、昭和天皇や秩父宮さまが育った明治、大正時代とは大きく変わったかもしれないが、根本的な部分は似ていて、佳子さまたちもあるいは同じような悩みを抱えているのかもしれない。 父親の誕生日写真の佳子さまは、目が覚めるような鮮やかなブルーのワンピース姿だった。それがとても似合っていて、「来年も頑張ろう」という佳子さまの決意を、私は感じた。昨年の12月29日に30歳となった佳子さまは、今年もまた、攻めると思う。 <文/江森敬治> えもり・けいじ 1956年生まれ。1980年、毎日新聞社に入社。社会部宮内庁担当記者、編集委員などを経て退社後、現在はジャーナリスト。著書に『秋篠宮』(小学館)、『美智子さまの気品』(主婦と生活社)など