【MotoGPライダーの足跡】中上貴晶選手、9歳の転機。「カートは危ないから、2輪がいい」
日本GPで見た、プロフェッショナルライダーたちに心を決めた
「プロのレーシングライダーになる」と決めたのもまた、この頃でした。 「夏にミニバイクの全国大会があって、それを獲ったくらいから、一気に(気持ちが)固まった感じでした。調子良く結果を残していたというのが、一番の要因ではあるんですけど」
そしてまた、先輩たちから刺激を受けたこともひとつの要因でした。バイク雑誌の企画で、WGP日本GPを訪れ、当時参戦していた多くの日本人ライダーと交流を持つことができたのです。中上選手にとって初めて感じた、プロフェッショナルの世界。「世界という舞台」でした。 「(ポケバイレースの)中野真矢杯に参戦していたので、(中野)真矢さんはポケバイのときから交流があったんですが、普段は自分がレースをしている状態。でも、日本GPでは逆ですよね。僕が現場にいて、真矢さんが走っている。すごく衝撃でした」 「そのときは(加藤)大治郎さんにも会いました。企画でじゃんけんをして、僕が勝った景品として、大治郎さんのブーツをもらったんです。そのブーツはすごく大切にしています」 世界で戦うレーシングライダーとの交流から刺激を受け、中上選手の心は固まっていきました。 「みんな、すごく輝いていました。『僕もここで戦いたい。将来、世界最高峰の舞台で日本人として走りたいな』と思ったのは、すごく覚えています」
中上貴晶選手の原点
もちろん、中上選手が歩んだ道のりは、平坦ではなかったでしょう。なぜ、強いモチベーションを維持できたのでしょうか。中上選手を支え続けたのは、幼い頃の決意だったのです。
「9歳、10歳で(レーシングライダーになることを)決断して、まだ日本人が達成していない最高峰クラスの世界チャンピオンに、自分がなりたいと強く思ったんです。それが全てだと思っています」 「そこが、原点なんです。それしかなかったかもしれません。諦めるのも放り投げるのも簡単だけど、それで得られるものはないから。苦しくても『何のためにここまで頑張って来たんだろう』と考えたとき、ぽんと出てくるのは、小さい頃に『世界チャンピオンになるんだ』と思ったこと。それだけなんです」 中上選手のキャリアを語るうえで大きな出来事のひとつとして、2008年から2009年にかけてロードレース世界選手権125ccクラスにフル参戦したものの、結果を残せずにシートを失ったことがありました。 2010年、2011年は全日本ロードレース選手権に参戦しました。当時は、一度世界から日本に戻ると、再び世界選手権に参戦することは難しいだろう、と考えられていました。それは、中上選手のレースキャリアにとって、とても大きなターニング・ポイントでした。 中上選手は、2011年にJ-GP2のチャンピオンを獲得して、2012年から再び世界選手権の舞台に戻るのです。あるいはそのときも、その原点が中上選手を支えていたのかもしれません。