助けに行ったら自分も漂流!? 終戦間際の日本に墜ちた米軍パイロット「救出作戦」の顛末 どうやって助けたのか
米軍による「最後の本土空襲」の裏で
かねてより米海軍は敵地であっても味方機の搭乗員が生存していれば、可能な限り救出する体勢を取っていました。この後、大湊警備府で起こった米軍の救出劇は、瀬戸内海の事例よりも劇的な展開を見せます。 「柳」と「橘」が呉を経って2か月後の7月14日、米第3艦隊第38任務部隊が、東北から北海道にかけて空襲を行いました。この日は米戦艦による釜石艦砲射撃もあり、津軽海峡や青森湾では11隻の青函連絡船が沈没または大破しています。 津軽海峡の警備で箱館港にいた「橘」も沈没。北海道の福島沖にいた「柳」は被弾で航行不能になり、大湊に曳航されました。 さらに終戦目前の8月9日、大湊警備府が本格的な空襲に見舞われます。在泊艦艇で最も大型の機雷敷設艦「常盤」(日露戦争時の装甲巡洋艦)が直撃弾で大破、「柳」は応戦するも数発の至近弾で浸水しました。ただ2隻とも沈没は免れ海岸に擱座し、8月15日まで排水作業が続けられました。なお、翌10日も大湊空襲があり、これが米機動部隊による最後の大規模な日本本土空襲になりました。 9日の空襲では、空母「エセックス」から出撃したF4Uコルセアのパイロット、コーンビー中尉は爆弾を投下後にエンジン停止、大湊警備府から南に約8kmの陸奥湾へ不時着水しました。ゴムボートで脱出した彼は、様子をうかがいながら夜になって下北半島の中野沢付近に上陸し、近くの森で一晩を過ごします。
米軍による「最後の本土空襲」の裏で
翌10日朝、再び大湊空襲のため「エセックス」から飛来したF4Uにコーンビー中尉が自分の居場所を知らせると、連絡を受けた救助隊が昼に到着します。救助にあたったチームは「エセックス」のF4U(4機)と戦艦「ノースカロライナ」のOS2U(2機)でした。 ところが、救命ボートを投下しようとしたF4Uの1機が、操縦を誤って海面に墜落してしまいます。一方、泳ぎ出したコーンビー中尉に、着水したOS2Uのパイロットがスロットルを開けたまま片足を翼に出した姿勢で待機しています。そこで機体が波に煽られパイロットは海に投げ出されます。付近には大湊からの砲弾が着弾しており、このままでは救助はおろか、損害が拡大してしまいかねない状況でした。 そこへ直水した2機目のOS2Uがすばやく2人を救出し、ミッションは完了しました。米軍が大分県沖の対空戦闘と同じく救助に2機のOS2Uを用意したのは、こうした不測の事態に対応するためでした。 戦争末期に米軍が日本本土で危険な救出作戦を実施できたのは、制海権と航空優勢を確保していただけでなく、護衛戦闘機とOS2Uで救出班を編成できるだけの装備に余裕があったからといえます。 日本軍もソロモン諸島の戦いなどで、遭難した搭乗員を水上偵察機や飛行艇で可能な限り捜索・救出しています。日米戦について物量の差があげられます。単に兵器の量や性能だけでなく、運用の面でどのような影響があるか、これらのエピソードは教えてくれます。
時実雅信(軍事ライター、編集者、翻訳家)