「あなたをどうかして守りたいけどなあ」…絶望に襲われた1944年の日本、“ふつうの日本人”が残した「切なくもいじらしい言葉」
本格化する空襲 若者たちは未来を絶たれた
11月、サイパン島を飛び立ったB-29が、銀色に輝くその姿を東京に現した。最初のターゲットとなったのは、航空機製造の中枢、東京・武蔵野市の中島飛行機だった。 この工場には、10代の学生約3000人が動員されていた。そのひとり、住み込みで働いていた女学生の川田文子(19)さんが、エゴドキュメントを残している。しっかり者だった文子さんは、日々の作業内容や反省点を「生活帳」に記録し、「早く一人前の工員になる」と記している 学業を中断し慣れない作業に汗を流す日々。それでも文子さんが、自分らしさを失うことはなかった。勤務が終わると工場の寮や学校でピアノを弾き、モーツァルトや賛美歌を奏でた。「生活帳」の隅には、こんな記述もある。 《今日の衣服 2日、ツーピース 3日、黄色のワンピース 白ブラウス 勇ましい中に清潔な服装にしたい》 工場での作業の時は、モンペ姿だったであろう。たまに事務仕事を割り当てられた時などに、ワンピースやツーピースを着て、精一杯のおしゃれをしていたようだ。厳しい勤務がつづくなかで文子さんは体調を崩し、次第に服装やピアノの記載も消えるが、時間を見つけては「楽譜写し」「コーラス」など好きな音楽をつづけている。 しかし11月下旬、B-29が頻繁に飛来するようになると、「生活帳」の記述は少なくなる。 《11月24日 空襲警報 待避 11月25日 警戒警報 待避 11月27日 空襲 11月30日 空襲》 警報がつづく中、文子さんは家族を心配し、母親に手紙を出している。 《(実家の)牛込はまだ無事のようですが、きっと来襲して来ると思います。御母様達もどこかに疎開なされたら良いと思います。できるだけお気をつけください。私も十分気をつけます。では又、さようなら》 12月3日、工場の食堂で文子さんが同級生とひと息ついていた時だった。警戒警報を知らせるサイレンが響き渡った。警報が長引くと、トイレのない防空壕で長時間過ごすことになる。同級生はトイレに急ぎ、文子さんは「先に行くわね」と言って、壕へ走ったという。 直後、すさまじい量の爆弾が空から降ってきた。同級生の藤岡千鶴子さんの手記が残されている。 《壕のすぐ傍らに爆弾が落ち、爆風で壕が崩れて中にいた方々は圧死のような状態となって掘り出されつつあった。 川田さんは防空頭巾の中のお顔も、着ていらした洋服も泥だらけになって横たえられ、私は、ただ呆然とその有様を見つめ泣いていた。》 千鶴子さんたち同級生は、文子さんを遺体安置所へ運んだ。 《水をとりかえとりかえ頭巾を外してお顔の泥をおとした。耳にも鼻にも泥が一ぱいつまり、耳からは血が流れていた。 先生もかけつけられ、たまたまその日持ち合わせていらした真新しい口紅をあけて、川田さんの唇にそっと紅をおひきになった。 川田さんのお顔はいつものように美しく、静かであった。》 日中戦争から太平洋戦争にかけて、青春時代を過ごした文子さんは、口紅を引いたことがあったのだろうか。番組の試写でこの場面を目にした私は、感傷的な思いにとらわれていた。しかし、取材したディレクターたちは、文子さんの死のあとで、とんでもないエゴドキュメントを挿入してきた。この出来事を「悲しい」「かわいそう」では済ませないという、取材者としての意志を感じる編集だった。それは、放送でぜひご覧いただきたい。 この戦争では、日本人だけでも310万人が亡くなったとされるが、その9割が1944年以降に集中しているという推計がある。シリーズ「新・ドキュメント太平洋戦争」は来年、1945年を取り上げる。戦火の中で綴られた言葉から、ひとりひとりの命の重みを伝える努力をつづけたい。 ・番組制作統括 横井秀信
デイリー新潮編集部
新潮社