「あなたをどうかして守りたいけどなあ」…絶望に襲われた1944年の日本、“ふつうの日本人”が残した「切なくもいじらしい言葉」
両親の死を目の当たりにした14歳の少女
冒頭で1944年は、市民の犠牲が急増した、と書いた。その現場のひとつとなったのが、日本から2300キロほど離れたサイパン島である。当時は日本の委任統治領で、沖縄や東北などから3万人の日本人が移り住み、製糖業や漁業に従事していた。 サイパンは、敵対するアメリカにとって、何としても手に入れたい島だった。新開発した爆撃機B-29の航続距離は5000キロほど(爆弾積載時)。サイパン島はちょうど、日本本土と往復できる場所に位置していた。この島を出撃拠点にすべく、6月、アメリカ軍が島の南西部から上陸を始める。 艦砲射撃と空襲、戦車と火炎放射器で島を制圧していくアメリカ軍。敗走していく日本軍に付き従う形で、多くの住民が北へ北へと避難していった。サイパン高等女学校に通っていた14歳の佐藤多津さんも、両親とともに逃げていた。サイパン島は真水に乏しく、水源地が限られている。アメリカ軍はそこに攻撃を加えていった。 《父は「水源地は死人の山で、水を汲むどころではないそうだ」と言って、私の前を歩き出しました。私の後ろは母が歩いています。》 娘の盾になるかのように、多津さんの前後を歩く両親。どうすれば娘の命を守れるか、そればかりを考えていただろう。 住民たちは日本軍から「敵に投降してはいけない」と教育され、捕まれば乱暴され、殺されると信じこまされていた。7月に入り、島の北部に追い詰められていくと、断崖から海へと次々に身を投げていった。 《黒い物が海に沢山浮いていて、波に揺れているのでした。父に聞くと、「全部死体だよ。小さいのは子供らしい。ここで敵に殺された人、近くの崖から飛び込んだ人達が、潮の流れでこの海岸に打ち寄せられたんだよ」》 戦争指導機関の大本営は、サイパン島の放棄を決定した。ある参謀は「もはや希望ある戦争指導は遂行し得ず」と書いている。サイパン島を失ったことによって本土空襲が決定的になり、戦争に勝利する希望は断たれたのである。 7月7日、日本軍の組織抵抗が終わった。犠牲者は将兵4万人、住民1万人にのぼる。大本営が島を放棄したことを知らない多津さんの家族は、援軍を期待しながらジャングルの中をひたすら逃げ惑う。そのさなか、母は大切に取ってあった鮭の缶詰を開け、食事をつくった。 《母が「ほら、たこ(多津)ちゃん、夕食よ! 我が家の晩さんよ」とにこにこしながら、湯気の立っている鍋を置きました。私が「お父さんから」と言うと、「大人はいいんだよ。早く温かいうちに食べなさい」と父に言われ、私から頂きました。 親子三人は久しぶりに温かい食事でくつろぎ、私はいつの間にか眠ってしまいました。》 これが、一家での最後の食事となった。8月5日、多津さんの目の前で、母はアメリカ兵の銃撃を受け、亡くなった。1か月後には、父も命を落とす。 《父の遺体にとりすがり、もう涙も出ませんでした。遺髪をむしりとりながら、傷の跡を調べました。頸動脈に穴があいていました。私は父にそっと毛布を掛けてあげました。》 遺体を荼毘に付せばアメリカ軍に見つかるため、そのまま放置せざるを得なかった。その後も多津さんはジャングルに身を潜める生活をつづけたが、20人ほどのアメリカ兵に取り囲まれ、収容された。 目の前で両親を殺害された多津さんは、ショックのあまり字を書くことが困難になった。ここに紹介した言葉は、収容所にいた多津さんが、文字を思い出そうと綴った日記帳が土台になっている。