「あなたをどうかして守りたいけどなあ」…絶望に襲われた1944年の日本、“ふつうの日本人”が残した「切なくもいじらしい言葉」
特攻隊員が愛した女性
戦時中のエゴドキュメントを読み進めていると、ふとした時に感じた美しさや、何気ない笑いを記した文章に出会うことがある。死と隣り合わせの日常だからこそ、人は生の中に喜びを見出そうとするのかもしれない。飛行機のエンジンを製造する軍需工場に動員された男子生徒の言葉。 《何につけても気になるのは彼女の態度だ。ハチマキを彼女に借りる決心をして、成功した。 頭に巻こうとした所、何と、憧れ続けた正真正銘の匂い、もうこれで空襲で死んでもいいとさえ感激した。》 今回の番組制作中、思わず落涙してしまった手紙があった。綴ったのは今西太一さん(当時25歳)。魚雷を人間が操縦する特攻兵器「回天」の搭乗員である。 絶望的な戦局の中で、日本軍は人間を兵器の一部として敵艦に体当たりさせる「特攻」に乗り出す。10月に航空機による特攻が始まり、翌月には回天が出撃する。その最初の作戦に、搭乗員のひとりとして選ばれたのが今西さんだった。 番組の取材で、今西さんが家族に宛てて出したおよそ120通の手紙が見つかった。回天隊への配属が決まっていた8月、今西さんは父にある希望を打ち明けていた。 《華子女をもらって戴きとう存じます。と言っても全く短かい契りにはなります。彼女へ捧げる私の誠はこの淡い契りも充分幸あるものたり得ると確信させるのであります。その期間を申し上げられぬのが残念であります。》 今西さんは、大胆とも思える言葉で、華子さんとの結婚を熱望していた。特攻作戦は極秘であり、今西さんは自分が搭乗員であることを、家族にも明かしていなかっただろう。それでも、父には察するところがあったのではないか。縁談を取り付けるために奔走した。 しかし、この縁談が実ることはなかった。その時の父の苦衷を察すると、胸が締め付けられる。父から息子へ、首尾を伝える手紙は残っていないが、返信と思われる文面で、今西さんは父を気遣っている。 《あのようになるのは最初から予想していたところでありました。息子のためならどんなことでもと言うお父様に甘えて、甘え過ぎました私、何卒お許し下さい。》 11月8日、今西さんは山口県にあった基地から、西太平洋へと向かった。どんな思いで、故国を離れたのだろうか。20日午前4時54分、今西さんの乗った回天が、アメリカの艦艇に向けて出撃した。その直前、潜水艦の中で家族に遺書を書いている。 《何一つ不幸を知らぬままに大きくして戴いた私 ここに感謝のうちに散ってゆきます。 御父様とフミちゃん、それに私の三人のあの写真と一緒に突撃します。》 出撃から51分後、大きな爆発音がしたと日本側の記録にはある。