だからトヨタは世界一の自動車会社になった…初代会長の「物づくりのまえに人を育てる」の深い意味
なぜトヨタは世界1位の自動車会社になったのか。イノベーション研究の第一人者、クレイトン・クリステンセンの著書『イノベーションの経済学』(ハーパーコリンズ・ジャパン)より、その要因を紹介する――。(第2回) 【画像】豊田英二(1913年9月12日―2013年9月17日) ■イノベーション研究の第一人者が考えるトヨタ成功の理由 自動車メーカー、トヨタはどうだろう。低価格でコンパクトなトヨタカローラはつねによく売れている。トヨタに成功をもたらしたおもな要因は、安価な労働力や政府からの援助ではない。それらももちろん役には立ったが、トヨタは戦後、より重要で、より永続的な、ある要因によって成長した。 1937年に創業したトヨタ自動車株式会社は、日本と東アジア地域の無消費(※)に焦点を当てたプロダクト開発をおこなった。当時の人は誰も、トヨタが将来、世界第5位の収益を上げる巨大企業になるとは想像しなかっただろう。 (※編註 「無消費(ノン・コンサンプション)」はクリステンセン氏が『ジョブ理論』の中で提唱した考え方。無消費とは「何らかの『制約』によって製品やサービスが使われていない」ことを指す。) 日本ではそのころまだ、31万輛近くの荷馬車と11万1000輛の牛車が行き来していた。道路の大半が未舗装で、そうした道を自動車で走行するのは不経済で危険な冒険でもあった。道が悪ければ車は故障しやすい。全長の5分の1しか舗装されていなかった戦後の日本では、動かなくなった車が道路脇のあちこちで見られた。トヨタはそうした国内事情を考慮して車をつくった。 ■まず無消費をターゲットにする 当時の社長、豊田喜一郎は言明している。 「トヨタは、荒れた道路に耐えられ、東アジアの人々にとって実用的な、経済効率のいい車を開発しなければならない」 当時トヨタが日本で生産していた車はアメリカの消費者が満足できるレベルのものではなかった。しかしトヨタにとってそれは問題ではなかった。先進国への輸出を考えるまえに、日本と近隣アジア諸国の巨大な無消費をターゲットとする心構えだったからだ。 トヨタが日本国内の販売台数と同数の車両を北米に輸出するようになるのは1980年のことだ。しかし北米への輸出を開始したあとも基本的な戦略を変えることはなく、ガソリンを大量に食うアメリカ車を所有できない、アメリカ市場の低所得層をターゲットとした。 トヨタが、フォード、GM、クライスラーといった既存の自動車メーカーと競争するのではなく、まず、無消費をターゲットとするという戦略を取ったことは、日本の発展にとって大きな意義があった。その理由を大きく4つにまとめてみよう。