23歳の頃に「悪魔の囁きが、喉を締めつけ…」坂本冬美(57)の“封印してしまいたい黒歴史”とは〈36回目の出場〉
同世代が遊んでいても…「10年後に、笑ってやるっ」
下積み自体はつらくはなかったが、歌のレッスンが少ないのが不安だったという。そんな日々にあって、猪俣を六本木の行きつけのブラジル料理店まで送ったときには、車を停めると「この歌を練習しとけ」とテープを渡され、師が店から出てくるまで、道行く人に不審がられつつも運転席で声を張り上げて歌っていた。 時あたかもバブルに入る前後であり、六本木はいま以上ににぎわっていたことだろう。だが、坂本は、《楽しげに遊んでいる同世代の人を見ても、彼らを羨ましいと思ったことは一度もありません。「10年後に、私は絶対、笑ってやるっ」。そんな意気込みだけはしっかり持っていましたから》と当時を振り返っている(『週刊現代』2011年3月26日号)。 デビューは思った以上に早く、内弟子になって1年も経たない1987年3月のことだった。レコード各社は彼女が『勝ち抜き歌謡天国』に出演したときから狙っており、争奪戦の末、東芝EMIが獲得していた。
「これは流行らないと思います」「バカやろう!」
猪俣は愛弟子のデビュー曲の候補として8曲も東芝側に提出したという。そのなかから選ばれたのが「あばれ太鼓」であった。しかし、石川さゆりのような女歌を歌いたいと思っていた坂本には、完全な男歌であるこの曲が古くさく感じられた。デビュー曲は一生ついてまわるものだと考えると我慢できず、つい猪俣に「これは流行らないと思います」と言ってしまう。だが、「バカやろう! 新人が流行るとか、流行らないとか言うのは100年早い!」と一喝されて終わりであった(『坂本冬美のモゴモゴモゴ』)。
ナベプロ創業者・渡辺晋は「男歌がいい」と即答
とはいえ、猪俣も内心は男歌で行っていいものか迷いがあったらしい。ちょうど前年の秋頃、芸能界で世話になってきた渡辺プロダクション(現・ワタナベエンターテインメント)の創業社長・渡辺晋が来宅したので、坂本のテープを聴かせると、「(彼女には)男歌と女歌どちらがいいと思いますか」と思い切って訊いてみた。すると渡辺は「男歌がいい」と即答。男歌で成功したのは畠山みどりや水前寺清子のあとあまりいないからそろそろ時期だというのが、その理由であった。その上で「この子の声には張りとツヤがある。面白いと思うよ」「着流しや袴姿は避けて、振り袖で歌わせたほうがいいね。女っぽい着物で男歌」とも助言してくれたという(猪俣公章『酒と演歌と男と女』講談社、1993年)。 このとき渡辺はがんで闘病中で、結局、坂本のデビューを見ないまま翌1987年1月に亡くなった。しかし、さすがは多くのスターを送り出してきただけにその目は確かであった。「あばれ太鼓」は彼女自ら各地を飛び回り、レコード店などで歌うなどしてアピールしたかいもあり、80万枚を売り上げるヒットとなる。このあと「あばれ太鼓」に無法松の一代記の語りを入れたバージョンを出したのち、実質的な2作目となる「祝い酒」を1988年にリリース、同年暮れに初出場した紅白でも披露した。
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