【追悼】偉大なマエストロ・小澤征爾の真の「すごさ」はどこにあったのか
人懐っこくて愛情深く、義理堅い
いわゆる音楽エリートではなかった小澤が、これほどの偉業を成し遂げたのは、人並外れた努力と行動力、そして指揮者には不可欠の「人間力」があったからである。終生ひたすら勉強を続けたことや、スクーターと共に貨物船で単身渡仏するなどの行動力はよく知られている。そして、拙著『山本直純と小澤征爾』の執筆途上で取材した彼に近しい人々は、口をそろえて「彼ほど人懐っこく、愛情が深く、義理堅い人はいない」と話していた。 指揮者・作曲家の朋友、山本直純(1932~2002年)が亡くなったとき、著名音楽家の中で一番に駆け付けたのが他ならぬ小澤だったと、直純の長男・純ノ介から聞いた。純ノ介自身は、小澤との“ホットライン”を持っていなかったにもかかわらずだ。この義理堅さは、人の心を動かさずにはおかない。 自らの努力にそうした人柄が加わったからこそ、多くの人々、中でも恩師・齋藤秀雄(音楽教育者・チェロ奏者 / 1902~74年)に愛され(逆に小澤は齋藤の名を高めた功労者でもある)、ヘルベルト・フォン・カラヤン、レナード・バーンスタインという20世紀指揮界の両雄の薫陶を受けることができたに違いない。この点も今改めて思い返すべきであろう。
「そこに存在するだけで音が変わる」
個人的にも、小澤が指揮するコンサートは数多く聴いた。圧倒的なバトン・テクニックや明晰(めいせき)なアプローチにはいつも感心させられたし、その鮮やかな指揮姿は今でもリアルに覚えている。中でも1986年2月13日、東京文化会館におけるボストン交響楽団とのマーラーの交響曲第3番は、いまだ忘れがたい。音楽に終始引き付けられた末の深く熱い感銘…。特に大河がうねるように進むフィナーレは感動的で、心に深く刻まれている。筆者にとって生涯最高のコンサートだった。 もう1つ、印象深い演奏がある。もはやほとんどステージに登場しなくなった2018年12月、ドイツ・グラモフォン創立120周年を記念したサントリーホールでのコンサート。小澤は、アンネ=ゾフィー・ムター(バイオリン)がソロを弾くサン=サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」を指揮した。すると、それまで別の指揮者で演奏していたサイトウ・キネン・オーケストラの音が明らかに変わった。突然湧き出した生気に富んで引き締まった音…それは生で接しないと感知できないものだったかもしれないが、聴衆は皆同じことを感じたであろう。これが小澤のすごさを改めて実感した、私にとっては最後の瞬間だった。 晩年は病気との闘いが続き、活動はかなり限定された。だが、サイトウ・キネン・オーケストラや新日本フィルでコンサートマスターなどを務めたバイオリニストの豊嶋泰嗣にインタビューした際、彼はこう語っていた。 「2021年にサイトウ・キネン・オーケストラを(シャルル・)デュトワが指揮した時、舞台袖に小澤さんがいて、腕を動かしていたんです。すると俄然(がぜん)音が違ってくる。小澤さんはもうそのレベルの人です」 「いてくれるだけでいいんです。一瞬顔を出すだけで、オーケストラの音が変わるのですから」 そこに存在するだけでオーケストラの音を変える小澤は、表舞台を去ってもなお不可欠な音楽家だった。それだけに、亡くなった今の喪失感は限りなく大きい。
【Profile】
柴田 克彦 音楽ライター・評論家、編集者。1957年福岡県生まれ。国学院大学文学部卒。中高、大学の吹奏楽部ではトロンボーン奏者として活動、東京フィルハーモニー交響楽団の裏方も経験。専門紙の編集者、クラシック音楽マネージメントの宣伝担当を経てフリー。雑誌、プログラムなどへの寄稿、編集から講演まで、幅広く活動をする。著書に『山本直純と小澤征爾』(朝日新聞出版, 2017年)。